磐田郡見付駅矢奈比売神社 此社いつの頃よりの事にか有見世の人天満天神の社と思誤りて祈願するに幸ひありてやがて天満宮の社のごとくなれり、此故に近き年此より天満天神の御霊をも並祭りて菅原神の遠忌の御霊祭も有し、この祭礼は八月十一日なり、其月の七日には氏子残らず浜をりとて海辺に行身潔し、穢有者 死の穢 月役のけがれある者 は其日より神事終わるまでは、所禄をもとめ他所に志りぞけ置て家々を祓ひ清め、十日の夜五つ時此より数十人 此人数定例にて出る者と又立かえられて出る者とありて年毎に其数定まらず、 裸身に腰蓑をまとひ草鞋のまゝに拝殿に登り、故エンヤサモンヤサと云つゝ踊上り踏轟す事半時ばかりなるに、踊る者の汗の気の立事恰蒸物の湯気のごとく、其物音方ニ三十町に響きわたりて、いみじき事にて是を鬼踊といへり、扱月の入を待て凡十町ばかりにしなる淡海国玉神社(此社を惣社といへり)に神輿を迂奉るに、其時は往来の人をとどめ犬猫までも追退け、家々門戸を閉火を滅じ物音を禁じ、家族のこらずつゝしみうずくまり居るに、闇夜に神輿を舁行事鳥の翔のごとし、此故に比左麻里の祭とも犬追祭ともいへり、かくて還御は十一日昼七つ時、此神輿の前後に氏子列りて駅内御行ありて御帰座なし奉るなり、此神事の時は往来の旅人も尋常の昔は下馬下乗して通たるに、寛政の中頃東海道土山駅金兵衛といふもの江戸に下るとて神主の家に立寄て云たるは、寛政の初めのころ、御祭礼の日急用有て早駕籠にて通りしに社前の大路を過る時、駕籠の上に大なる石にても打附られし如く覚えて、駕籠の棒真中より折し故怪しみ見るに、棒の折しのみにて聊損したる所もなかりしかば、乗打せし御咎ならんと思ひしかど、急用なれば御社の方を遥拝したるのみにて行過しを、年月経れども畏さ忘るゝなかりしに、又此度江戸に下る故御社に詣しを故旧年の御咎を和めまつりて給はれと金百疋奉納せし故然有し事を知れりと則神主斉藤監物菅原春雄の物語なり
磐田郡矢奈比売神社(上にいへる見付駅天神の社なり)の祭礼は八月十一日なるに近き年頃七月十三日の夜、遠近の諸人皆参詣し、其夜通夜する者数多あり。是は、社伝にもなきことなれども、諸人群集し、通夜する者多ければ、夜灯など祭礼の時のごとく灯し、今は、漸祭礼の如くになりたり。さて、此事を尋ね聞に、何処のいかなる人にかありけん、或年の七月十三日の夜、社の東北の原を通りたるに、俄に腹痛して悩苦みたれども、伴ひし人もなく往来の人も見えず、只一人死ぬばかり苦みけるに、此天神社に祈願したれば忽に快くなれりを、其後此故を以て七月十三日の夜参詣通夜なれば、腹痛の悩なしとて諸人かくの如しとなん。
豊田郡境松天王社の祭礼は、毎年六月七日神輿を、見付駅惣社に迂まつりて十五日還御なりたるに、文化十三年六月八日其道筋なる並木の松、故なく折しをも、いうなる祟にかと怪しみたれどもいさゝか障なかりしといへり。
中村乗高 ・ 寛政八年より文政元年
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