遠江国磐田郡見付駅の祭礼は、毎年旧暦八月十日十一日に行ふ、祭神は矢奈比売尊、菅公と合祀、駅の東端山中に社有り、広袤数町、樹木蓊欝、斜めに坂道を躋ること数百歩、青苔地を封して、清閑塵遠の霊地なり、十一日には見附一宿は言ふに及ばず、近村近郷の信者、皆裸体にて、藁もて疎なる蓑の如きものを腰に纏ひ、或は小児を肩に乗せ、日没前より数千人集り来る、古来より裸祭りと称して、神輿を供奉する者は、尽く衣を着る者なし、只輿を担う者十人計り、烏帽子白丁にて、其他旗を持つもの、幣を捧ぐる者、皆赤裸なり、維新以来、法律の厳なるも、此祭礼一日のみは、官許にて、此式を行ふを例とせり、嘗て聞く、小児の健康安全に成育を祈る者は、御礼には祭祀の時、必ず裸体にて神輿の供奉致すべき事を誓ふて、外に捧げるもの等を為さる故に、多く小児を携えて来る者多し、其親達も、又其親が右の誓言を立て育てし者なれば、初老ぐらゐまでは、皆報恩の為に出る事なれば、殆ど数千人に及べるなり、さて神輿の山を出る時は夜明けの半時計り前にて、それまでは家毎に星の如くに燈を点せしも、出輿の報と共に、家燈は勿論、諸商人の店までも、皆燈を滅し、真の闇黒と為し、駅の中程に、総社と言へる社まで凡そ十町計り渡御するなり、此社は淡海国魂神社(あふみくにたまのじんじゃ)といふ、神輿過れば皆燈を点ず、時正に黎明なり、其前夜半頃までは、花火打揚等夥しく有て、通常の参詣人は数万人群集せり、古へより此祭礼に喧嘩口論等は更に無しと云ふ、翌十三日は、皆礼服にて神輿を駅中楽を奏し、徐々として本社へ供奉す、已に夜に及べリ、駅に舞車、御瀧車、根元車、真車、元門車、元橋車、等の組有て、各々其組名の堤燈を点じて従ふ、皆車字を用ゆれど、車は一台も出ず、或は古へ車を出せしものにや、されど此祭礼の賑やかなる事は、大都の大祭も及ぶべからざる景況なり、若し美服を競ふとか、対の衣装を新調するとか言へば、稍さしつかへる事もあるべけれども、裸体に腰蓑といふ出立ちなれば、貴賎上下の別ち無く、誰にても供奉の出来る事故に、非常の賑ひを致せるなり、且つ風俗に似合ぬ、穏やかなる式なれば、田舎の質朴なる神慮にも叶ふべし、且つ此社は菅公を合祀すれば神輿(しんよ)も幕も氏子の軒堤燈も、梅ばちの紋を附く所の有志者山内へ梅林を植ゆるの議あれど、いまだ其はこびに至らず、駅に松月堂伊藤虎三郎なる者ありて、三都有名の書画を集めて、尽く大金榜半裁に乞て、自から絹表装に仕立、百五十幅寄附せり、虫干しには学校にて展し衆に縦覧せしむ、本社と拝殿の間廊の左右に、高久隆古の画ける三十六歌仙の板額三十六枚あり、歌は萩原秋厳の筆なり、其外は珍しき宝物等も無し、されど其額面及び新書画等ある故に好事の人往々参拝する者多しと云ふ。
明治三十六年十月十日発行
風俗画報第二百七十六号
芝山道人 著
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