重要無形民俗文化財 見付天神裸祭
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見付天神裸祭・資料集
見付天神裸祭人身御供傳説
(静岡県史編纂資料232)

裸體祭人身御供傳説ニ對スル意見

謹啓時下彌御健勝之段大慶之至りに奉賀候陳者本月ニ日付御芳書忝く拝見直に 御返事申上べきの處追々延引候段謝上候扨當天神社裸祭に関する記録は神社に於て何等 無之明治初年頃迄各町若者共に《中老列席》祭典之説読聞せし御條目と申すもの 有之候ひし哉に承知致し候に夫々心當り相尋ね候へ共只今の處見當りかね候 是れは是非一度求めたく存し居候間発見出来候へば内容御報申上べく候
次に御送付に預り候書類は古老の方にもご覧に入れ申候至つてよく記述致され 居るやう存ぜられ申候一ニ紙片を貼付致し置き候間御覧相成度祭典費は神社に於て 支出の分は一回の祭典に約八百五十圓前後に御座候各町に於て支出の分は 町内青年等より支出致し種々混同致し居り判明致しかね候共余り多額には 上らざる事に被存候尚前記御條目中の詞に遠江國府の地に七字天封の神社あり 由来遠く今に至る迄七百年に垂とす(此は一條天皇正暦四年より起算)とか記憶致し居る人あり(一條天皇御宇以前七百年の謂)本文中七字天封神社とは 矢奈比賣命を申上くる事と承知致し候へ共他に何か據る處有之候哉御示教仰度願上候先は右申上度時節柄折角御自愛祈上候
敬具

昭和4年12月8日      川出新一

其の一、裸體祭

 静岡縣(遠江國)磐田郡、見付町に式内社矢奈比賣神社といふ縣社があつて、其祭禮を毎年陰暦八月十日、十一日の両日に執行するのであるが、 此祭禮は「見付天神の裸體祭」といつて頗る有名であり、 無慮幾千人といふ多数の賽者が遠近から集ふので市中は人を以て十塞し、 立錐の余地もない位、露店の賑いも又格別である。 馬車も往復するし、鉄道院でも特に臨時列車を発する位で、 全町當日の繁盛はとても言語や筆紙の尽すところではないのである。
 さて、此祭禮を何故裸體祭といふかといふに、神輿の渡御を行ふ際、 それに扈従する者、神官以外の人々は、凡て赤裸々で、 只僅に腰に注連を纏ふのみである。 此れがこの祭名の起源である。 其れからまた其の時刻はといふと深更月落つるの時刻(午前三時)で、 それに一点の燈火もなく、家々の燈火までも打消し、闇中声を発せず、 粛々渡御を行ふのである。されば往時にあっては「夜中祭」また「ひそまり祭」 とも呼んだやうである。
石川鴻齋翁の詩に
裸体腰蓑又脊童  千年墨守舊時風
滅燈深夜最厳粛  直護神輿到別宮
といへるは、一種異様なる同祭典の状を写し得て悉せるもの、 僅々二十八字眞に是れ有聲の畫である。
此祭禮にあたり、往時は人身御供を献けたものだといふ、 「都の錦」にも
十日の月夜の落つるを相圖に娘を白木の櫃に入れ、一点の燈火もなく、 眞の闇に、大勢してこれをかき、櫃を神前になほし、 鯨波をあげて還り来る
とある。人身御供の事は口碑の傳説にもある。 されば如上の奇習は當年の遺風を存するものといはれ、 燈火を打消すは悲哀の象徴、赤裸々は身に寸鉄を帯びざることを 證したものと註される。
此の祭禮には、更に「御柴下し」、「浜垢離」などの神事がある、 詩に"千年墨守舊時風"といひ「見付天神記」にも 「所謂見付天神の裸体祭なるもの其由来遠く且つ久し、 恒例今に絶ゆることなし」といへる如く、現時も古例の大体を其儘
 八月二日(陰暦)夜中二時「御柴下し」
    七日    氏子一同「浜垢離」
   十一日午前三時半神輿渡御
        午後五時半町内巡歴還御
といふ順序を以て執行さるゝのである。 以下其景状を、「都の錦」、「遠々みます」、「見付天神記」の諸書が 如何に叙せるか、序を逐ふて之を紹介したい。

一「御柴下し」は、「都の錦」に
其月(八月)二日の夜、神主清浄し榊木を駅中所々に立置き、 人々は穢を忌み清浄を極む、 また女は月癸の其頃に當るものは、是を他所に遺し、 祭禮相済むまで帰ること叶はざるなり、 親兄弟は申すに不及縁ある人の死たる時にも、 其穢の軽重によりて、これまた同じ
「遠々みます」の記事は比較的詳細である。
八月七日夜、氏子供水垢離にて丑満に御社へ行く、此の時町中燈を消し、 拝むものは門に出て拝す、家内は無言にして待つ、 氏子は烏帽子白丁にて御社より榊をかつぎ、 眞の暗に山を平地の如く駆け下りるに、 少しも怪我なし、氏子肩の痛くなる時、榊を町中へ下し憩む、 又かき上る時、榊の枝を折りて記に挿し置く、 御酒所この所へ建るなり、忌服のあるもの 八月七日より三里離れて住む、夫人「月のさはり」も同断也
と、但此神事を八月七日、忌服等の遠慮をも仝日よりの事としたのは、 「都の錦」に之を八月二日と為したるが正しいかと思はれる、 また「御柴下し」といへる稱呼は正しい名前であるか否か疑わしいが、 之を俗には「オミシマサマ」と稱へて居るやうである、 其故自分は嘗て「オミシマサマ」のミシマは御注連の轉訛で、 舊時注連を張り榊を立てたのが、何時か注連を省き、 榊ばかりを立つるやうになつたけれども名前だけは昔時の儘で 押し通つて来たのであるまいかと想ふて居た、 此の神事に就て曾て山中共古氏に質したことがある、 而して氏の對は大要左の如くであった
「オミシマサマ」と稱ふる神事は、町々の青年垢離して、 暗夜に天神社へ到と、神職の若者手に榊の枝を持ちて、 神前より駆け出す、 若者も續きて走り、町の角、四五ヶ所へ来ると机が出してあり、 これへ榊の枝を立て、祝詞を唱へ、又次の所へ駆行く、前の如くし、 又次へ駆行く若者連れ立ちて走る、 此の神秘の祭事「オミシマサマ」は 或人之を「道芝さま」かといふ如何にや、 「御身代様」といふにてはこれなきか、 参詣人町の外より来る人々も、 此榊によりて身浄めを為すためのものにあらずやと思はる云云
二「浜垢離」、「遠々見ます」には其記事が無く「都の錦」にも 産子はすべて七日以内に荒浜に下り、其身を浄む という簡短の記事に過ぎぬ、浜垢離は「ハマオリ」ともいつて居る、「浜汚離」 或は「浜下り」の意味かといふ、今も盛に之を行ひ、 殆んど浜遊の状を呈して居るといふことである、 往古は此の浜垢離から、帰り来つた其夜例の白羽の矢が立ち、 其年人身御供に献げらるゝ女が決るといふ、「都の錦」に
其昔犠牲を供ふる時は、荒浜より帰り、清浄になりし七日の夜、 丑満刻、何處ともなく、白羽の矢一筋、家の棟に来り立つ、 此家の女、年番に當れるしるしなり
とある、この白羽の矢は、何時、何處の人身御供物語にも、 必ず漏るゝことのない、條項である、 (白羽の矢が立つといふは八月七日の夜にあらずして同月二日の夜なるべし 其説下にあり)
八月十日、祭禮當夜には「鬼躍」といふことを為る、そは見付天神記(原漢文)に
其夜に入るや、町内の壮者皆裸となり、七五三縄を以て腰に纏ひ、 拝殿に上りて踴躍る、甲町のもの去れば乙町の者来り、 乙町の者去れば丙町の者之に継ぎ、末町の者に至りて終る、
とある「遠々見ます」
十日の暮六つより祭禮はじまる、宵の賑ひ、 町々の萬燈、江戸の花車なり、 氏子の若衆まんどを持ちそめく、此外思ひ思ひの細工もの、 さまざまの好みにて町中一杯の大燈籠いづれも燈火入り数知れず、 この花車に附く人凡そ一本に八九十人位、氏子の形、 昔の手遊のすたすた坊主の姿也、 水垢離とり、晒切立犢鼻褌、腰に荒縄大七五三をまく、 是は人の寄附かぬようにして、 組合ふて、よんやサ、もんやサよんやサもんやサといふ、 相撲にあらず、髪結ひたるあり、其儘もあり、宵のうち東西行違ひ、 おのおの如件、町々の御神燈、右の萬燈、燈火入り、 家々の賑ひ天を焦すが如し、 夫より町々を遊びてのち御社に入り組合ひ、 よんやサ、もんやサと組合ふこれを鬼躍といふ。
また此の拍子、ヨンヤサ、モンヤサに就て口碑の傳説を左の如く説明してある
宵に氏子の素はだかに組み合ひて ヨンヤサモンヤサヨンヤサモンヤサ
昔人身御供に上る頃、神主の子によん彌、もん彌といふ 二人の子あり、二人共其行方しれず、まさに其為に失ふ親たるもの 気違の如く神事の日夜よん彌、もん彌とたづねしに、 二人の子供無事に家に帰りしも、まったく天神の加護難有し難有し ヨンヤサ、モンヤサの古例是也
神輿の渡御は、一番触、二番触の報あり、三番触の報ありて、其より始まる、 「見付天神記」に
三番触終るや、神輿乃ち殿を発す、暗黒咫尺を辨せず、 鹵簿粛々淡海國玉神社(所謂御旅所)に抵り、 初日の式これにて畢る、云云
「都の錦」
神輿渡御の時には、大風大雨にも一刻の延縮なく、 犬猫を追拂ひ之を遠ざけ、 御輿守護する人斗り、烏帽白衣を着し、其餘附隋隨ふ御供の人々は、 幾千人たりとも皆丸裸にて腰に蓑を引まはし、 丑満時に一点の燈火もなく眞の闇なり、 御宮より御旅所まで人皆無言なり、 凡て祭禮の式をそむくものあれば立どころに 神罰を蒙るとて人々恐れ慎むなり。
「遠々見ます」
夜の九つ迄各賑ひ、九ツの鐘を相圖として、 一番手といふ報、御社より御假家に来る、 是より次第次第に家々の仕度、町中は近村の人々軒下に満々て 町中狭く、八ツの頭を相圖に家々の燈火を消し闇となる、 この時御山に登る眞の闇なり、 社内の人々右の形にて二番手、三番手と段々に坂を駆け下りる、 シッシッといふは是は犬を拂ふ例なり、 数多の人々口々にいふ故、何か物凄く、 坂より半町程上に一の鳥居あり、松並木所々に木燈籠あり、 御社より御神輿出る、 両脇白丁三人松明をかつぎ、此の眞先に太刀かつぐ、 この大刀一番の菖蒲刀の大きさ、白丁烏帽子なり、 神主装束、冠、ニ方共跡供大太刀は二振りなり、 右の神輿御社より一の鳥居までおねり、此處にて松明を踏み消す、 是よりまた闇となり御神輿をかき山坂を下りる、数多の足音天に響き、 怖しくもありがたし、御假家に御神輿納る、 又々宵の如く町々の御神燈家々の燈火を照らす
とある、
十一日日中の記事は「都の錦」に見えず、「見付天神社記」十一日の晩、 神輿町中を巡りて還る、これを祭典の終りとなすと叙し、 「遠々見升」また翌十一日昼時御假家にましまし、日の八ツ時に御社へ御帰り、 目出度御祭禮納ると叙し、何れも簡短終るに當り猶一時の書き漏すべからざるものがある、 其れは此の祭禮の外、見付には祇園會舞車の祭事のあつたことである、 勿論此れも奇異なる祭禮ではあつたが、此神事何時か其跡を絶ち、 内山眞龍翁が寛政年間に編述された、「遠江國風土記傳」にも、 祇園祭日六月十五日、神事行舞車近世廃焉と叙してある、 而して此の祭禮今は僅に謡曲、舞車によりて其面影を偲ぶに過ぎないのである。

    舞 車

ワキ詞「加様に候者遠江國こふの者にて候、扨も當所の祇園會明日にて候、 彼祇園會と申は今夜此宿に留りたる旅人に車の上の舞をまはする法にて候、 東方の舞手は候へどもいまだ此方になく候間路次へ罷出旅人をとゞめばやと 存候」(中略)
  ワキ 「如何に旅人お宿を参らせ候べし、」
シテ「あらうれしや、さらばやがて参らふずるにて候」
ワキ「いかに申べきことの候、近頃卒爾なる申事にて候へども明日は 當所の祇園の會にて候、彼祇園會と申は車をかざり其上にて舞をまひ候が、 今夜此宿に留りたる旅人の役にて候、是は昔よりの大法にて候間そと御まひあつて 給り候へ(下略)
而して此の祭事が彼の裸体祭に混融せし事實がある、 其れに就ては山中共古氏も左の如く云つて居られる、
見付夜祭は元来天神の祭ならずして、祇園の神事が混したつことゝ思はる (祇園社今は見る影もなき小社にて中泉八幡の後方にあり、 八幡か勢力を得たる時代に後方へ移れたるものなるべし) 室町時代の夜祭なりし故今に天神祭の時、 舞車、何車と一々車名を町々の提灯に印として附くるも 祇園祭舞車の遺風なるべく、 其混ぜし時代も比較的近き頃にはこれなきか云云
見付天神の奇異なる傳説・其ニ、人身御供傳説

岩田孝支

 既に所謂見付天神の裸体祭なるものを叙し畢つたから、 更に其人身御供傳説なるものを説明したいと思ふ
さて見付天神人身御供の傳説といふは、今も同地方の口碑に存して居る、 即ちその大略の筋をいへば、人身御供のこと久しく打續き、 土民の愁嘆は、一通りで無つた、或る年の祭時に偶々一人の廻國六部が来て、 女を人身御供に献ける、 父母の愁嘆に痛く同情し、 健気にも怪神が信濃國の悉平太郎は居らぬかといつて、 ひどく悉平太郎を気にする様子であるから、 人助の為めこれは一つ信濃國へ往て、 其悉平太郎といふ勇士を尋ね出し、 怪神退治の相談をしたいものと、 直ぐに信濃國へ行て彼處此處尋ね廻つてみたが、 結局悉平太郎といふは、勇士ではなく、 或猟師の家に畜つてある猛犬であることがわかつた、 そこで猟師に段々の次第を物語り、件の猛犬を借り受けて来て、 其年の祭には悉平太郎を櫃に入れて、 人身御供に代へ、六部も倶に行った、頓て時刻か移ると怪神か出て来て 例の如く信濃國の悉平太郎は居らぬかと問ふ、 其一が悉平太郎は居らぬと答へ、斯の問答が終ると雀躍して櫃に近づき、 やをら蓋をばこぢあけた、中から悉平太郎が跳り出て、其一番巨魁らいしのに 噛み付いた、六部も加勢して、眷族ども切りまくる、 激闘久しきに彌り、悉平太郎は遂に年古る大狸を斃したが、 其身も負傷の為めに片息になつて居たので、様々介抱し、 其後信濃國へ送り還す途中で、悉平太郎は遂に死んだといふ、 或は國へ還つて後死んだともいふ、 それは兎に角此以後遂に人身御供といふことを為なくなつたといふのである、
「見付天神記」にはこの傳説をかう書いてある、曰く
往時草昧の日、一恠物ありて棲めり、毎歳祭典に當り、 一美女をおさめざれば則ち全町其蓄を速く、 是を以て献身例となり、 町中女子を有てるもの戦々競々心を安んずるものなかりき、 某歳信濃國人某、事あり来りて見付に宿る、 偶祭日にあたれり、夜に入りて旅舎騒擾を極む、 某解する能はす、因て其故を問ふ、 主人語るに子女選にあたるを以てす、 悲泣交々至る、某首肯する所あり、蓄犬に隼太郎といふものあり、 躯幹長大、勇猛當るべからず、 某隼太郎を櫃中に入れ輿丁をして是を舁き去らしめ、 某亦微に之に尾して行く、時既に午後を過ぎ境内間寂、鬼気に逼る、 輿丁櫃を壇上に置き、倉遑帰り去る、 須更にして恠物扉を排きて出て、一たび其掩蓋を撤するや、 隼太郎突如起ち之と格闘し、某又傍より之か聲援を為す、 恠物敵する能はず、遂に隼太郎の為めに殺さる、 某就て之を諦視すれば、則ち猿猴の年を経たるものなりき、 爾後恠物の蓄絶え、献身の例亦此より止む、此時隼太郎創を被り、 日夜兼行、國に還りて死す、云云
口碑の傳説には犬の名を悉平太郎といひ、これには隼太郎といふ、 怪物も前者は古狸、後者は猿猴の年を経たるものといふ、 これ等は作者が、據一傳説起稿、無所考徴、故比之古記所傳、 不免有差謬と附言せる所以であらう、 されど大体の筋に至りては、略同一たることが認められる、
同記は更に記して
隼太郎の墓、信濃國上伊奈郡光前寺にあり、年々祭祀を絶たず、 或はいふ隼太郎は光前寺の蓄犬なりと
今之を光前寺の記録に徴するに、其一「不動尊御縁起」と稱するもの、末文に
其後二百八十有九歳の春秋を経て、 延慶元年隣國遠州府中古来荒社の地に怪神住し、里民を悩す、 當山霊犬希瑞を現じ、彼地に飛行き、 乍ち怪神を降伏せしめて諸人の災害を救ふ、 是を以て犬不動と稱し奉る
とある、更に其の「書寫大般若経由来書」と稱するものを見れば
往古遠州府中古来荒廟あり、祭廟に至る毎に、 里民先ず其容貌の端正なものを擇び、櫃に盛りて是を廟後に置く、 丑の時に至る比、廟社頻に振動し、畏るべき怪神両三出て来り、 鼓舞して言ふ、信濃國早太郎今夜無きやと、 一怪神答て云ふ無しと、時に彼怪神櫃を毀ち、兒人を捉ふ、 荒廟社潜に之を窺ふ、身毛皆竪つ、乃ち里人と議り言ふ、 怪むべし早太郎の有無を訊ふ、深く之を怖るゝものに似たり、 早太郎これ何者ぞや、社主乃ち信陽に入り遍く之を尋ね、 遂に當山に到り、偶々蓄犬早太郎と呼ふを聞き、 且つ駭き且つ喜び、寺主に語るに其所以を以てし、 懇に之を賜んことを請ふ、寺主之を聴す、大に歓び牽き廻り、 乃ち祭時に到り良犬を櫃に入れて之を社後に置く、 時に怪神問答恒の如し櫃を毀ち將に捉へんとす早太郎踴躍□吠、 其勢當るべからず、挑みて闘て遂に之を噛み殺す、 明旦里人往て之を視るに乃ち老狸也、利牙角眼甚た懼るべし、 而して良犬恙なし云云
とある、此の如き記録の存するをみれば、 「見付天神記」の記事は決して根據なき説でなく 却て見付の怪獣を退治したのは明に光前寺の早太郎らしいとも云はれる、 「書寫大般若経由来書」といふもの現に同寺に存して居る、 其由来は、「御縁起」に
後荒社の別當一實坊なる者、自ら大般若経六百巻を手寫し 恩澤に酬ゆ、其後世を経連綿として寶庫に遺る
また「由来書」にも
里人悦喜に堪えず、乃ち謝恩の為めに大般若経六百巻を 奉じ来り當山に納む、則ち正和辰卯月八日也、 則彼社僧一實坊辨存なる者書寫凡そ六年、其弟淡路阿闍梨光尤供ふる 處のもの也
と明記されてある、また此の大般若経には其表紙の裏に
遠江國府中
 北野天神宮内
奉施人              一實坊
  正和丙辰卯月八日
大般若波羅密多経第一巻末に
奉施人
 天満大自在天神御寶前
 二国府             一實坊書畢
六百巻の巻末に
奉施人              一實坊因一自力
                六ヶ年一筆書寫
施入は正和五年丙卯月八日宮内入
供養は建武二年丙辰二月廿六日以舞楽遂畢
勝達阿闍梨光尤
於法華経開結心阿彌陀一字三禮一華書寫勧進法會遂
との裏書があるといふ、
「書寫大般若経由来書」に関しては、遠州に何等の傳説も無いが、 「都の錦」にもまた「遠江調誌」にも大般若経奉納の記事がある、 されど孰れにも菩提の為めとあつて謝恩の為めと云ふことを書いてない、
「遠江調誌」には此人身御供譚の梗概を叙して
人皇九十四代花園天皇の御宇正和年中、遠州府中、 北野天神宮内奉施人に人身御供の祭式ありし時、 信州上伊奈郡(原本誤りて下伊奈郡としてある) 上穂(原本株と書てある、わふ、かぶ発音近きため誤つたもの) 天台宗光前寺の悉平太郎、早太郎といふ霊犬を人代として奉施人 神前に供へければ、大なる古狸と闘ひ、二疋の犬退治して帰る時、 愛宕郷観音山の嶺にて終焉せしを犬宮と齋き祭る云云
と書いてある、犬を齋き祭ることは、「遠々見ます」にも
かの古狸、丹波の國のしつぺい太郎たかひに牙を鳴らしくい合死たるは 見付の駅より五里山深き所也、 一つの宮有りしつぺい太郎をまつりしなり
とある、悉平太郎が古狸と闘ひたるは、現今の社境、 でなく磐田原元天神(舊社地)といふ地であつたことは、見付にも其説がある、 「遠々見ます」は多分闘ふた場所と齋き祭れる地とを混同して書いたものらしい、 別に「都の錦」には怪獣退治を深く恩恵とし、本社の傍に山神として祭るとの 紀事がある、而して矢奈比賣神社の末社中に現に山神という小祠の存するを見れば一概にこれも根據なき説として斥くる譯にも行くまい、 或は口碑が湮滅したのかも知れない、
「都の錦」といふは復讐の武勇談本で、此の稗史に於ては、 見付の怪獣を退治したものを一個の武士としてある、其名を棧亙義兼とて、 信州木曾の産、幼名を方太郎といふ、 此の武士が義兄の讐を尋ね、上國を遍歴の際、偶見付の駅に宿り、 其夜産土神の霊夢に感じ、怪獣を退治し、人身御供に當つた宿屋の娘を救ひ、 また其場で計らずも、尋ぬる讐に出会したと云ふのが其の趣向である。


昭和4年  静岡縣史編纂係

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