はじめに
見付天神裸祭りは南方系の要素が強い祭りであり、 この地に移り住んだ先住の人々がこれから満ちてくる月を基準 (八月十日)として、 神に祈りをしたのが現在に伝わっているのではないかともいわれているが、 祭りの基本に関わることだけに多くの人がそれぞれの仮説を立てている。 ここでは農業神である矢奈比売神社に併せ祀られている 「天神さま」について研究してみたいと考えて拙稿を起こしてみた。
天神さま
一般に天神さまといえば菅原道真を祭ってある神様のことだとされているが、
それ以前に天の神という古い神の観念が存在している。
それは全国的にみると「○○天神」などと地域的な名称をつけた神格が
数多く見られることである。
その天神なるものは天から降来たる神というのに
ふさわしい語であったためであろう。
このようにしてそれぞれの地域にあった天神という神が、
ある時代から急速に菅原道真の
霊を祀った天神と混同されてくるのは、
菅原道真の怨霊活動が激烈であったからではないだろうか
というのがその根拠である。
またそれが当時の御霊信仰や雷神信仰と堅く結びついて、
強力なものになっていったからである。
菅原道真が死んで五十年位の間に京都、 近江などでは神託があって世間の評判となり、 ついには北野に菅原道真の霊を祀って天満大自在天神とか、 大政威徳天神などといった。 その北野の地には古くから天神の祠がありそこへ霊廟をたてたが、 この北野の御霊信仰には古くからの 雷神信仰も結びついていたらしくて、 火雷天神とも呼ばれていたという。 その後、菅原道真の霊に対しては、 文道の大祖と賞賛されるようになって、 文字詩歌の神と崇められて天神講は各地に普及して行った。
見付天神の境内にあったという「雷塚」は 現在天王町の「雷三社」に移転して 併せ祀られているが、 見付が遠江の国府であったという土地柄を考えると、 前記の北野天神の成立と相似している点が見られるのは、 何かそこに意味があるのかもしれない。 このように、荒神さまや荒御霊が宿っているから、 それに触れると荒神さまの祟りがあると信じられていたので、 全国的に見て数多い貴重な文化遺産が守られてきたのは 生活の知恵であったと考える人が多い。 この荒御霊といわれるものが天神信仰で、 農業の神である矢奈比売神とともに 祀られてきたのではないかと考えれみたのである。 また見付天神と呼ぶことについては、 農業神の矢奈比売神よりも古くから呼びなれた天神に、 地名の見付をつけたものではないかと推量してみたい。
もともと技術や医療などの発達していなかった昔は、 災害があったときや田畑の収穫が悪い年、 病人が多いことなどがあると、 それは荒御霊の祟りであると考えた。 その対応としては荒神を鎮めるためのお祓いの行事をしたり、 祭りをしたりして安全を願うほかなかった。 その関連として、 例えば子供が自分の意思が通らないからといって「地団太」 を踏む姿をよくみかけるが、 あれは自らの気持ちを鎮めるために 自然のうちに地団太を踏む姿になっているのだという説を支持したい。 このことは誰でもが経験したことがあるように失敗したときや、 大きな事件が起こったりしたときに、 思わず地面を強く踏みしめて自分の心を鎮める しぐさをしてしまうことがある。 これを更に普遍して考えると見付天神裸祭りで行うように、 人々が祭礼をして荒御霊を鎮めるために先ず自分たちの心身を清め、 神と共に潔斎を重ねて、大地を強く踏みしめる鬼踊りの祭事をする。 そして神と共に穏やかに清祓された心になってから、 災厄を払ってほしいと願う行事に移ると考えられるのである。
南方渡来説
大昔に日本人はどこから来たのだろうかという疑問を誰でも持つ。
このことについて多くの学者が研究しているが、
的確な回答をする者は現在いないという。
見付天神裸祭りが南方系の祭りではないかと前述したが、
このことについて
興味のある研究として民俗学の分野から、
柳田国男が一つの仮説を発表しているので、
概要を要約して次に記す。
原始の日本人がこの極東列島に最初に上陸したのは 南島ではないかと問題提起をしている。 そのなかで南島、つまり琉球三六島の核心を押さえた。 この島へ上陸した人とその生活がやがて南から北へ、 海上の道を通って移り広がっていったとしている。 その動因として、彼は宝貝の存在をあげ この「寄物」についてきめ細かい考察のあとに 「漂着」の思想を組立てている。 最初は魚の方から群をなして押し寄せてきて 「欲しいと思う者に誰にでも取らせてくれた」 などと面白い洞察もしている。 そして、日本列島への最初の上陸場所としての南島、 それが本土ではそことどのような一致点を残しているかを 各々の列挙によって考察している。 本土でいう「根の国」と南島でいう 「ニライ・カナイ」の比較考察がそこにある。 日本人の生活に絡みついた稲が、 つまりこのニライ・カナイから届けられた 神聖な作物であることや、また火や「イノチ」やねずみまで、 そこから来たという 珍しい考察も示している。 この「八重の波路の遥かあなたとは言いながらも、 必ずしも往来し難い処とまでは考えられなかった」 とも書いている。 そして、「北大陸のツングースの方から なぜ渡って来なければならなかったのであろうか」 と反語的な書き方もして南からの伝来の仮説を強調している。 更に「旧日本の諸島を含めて、広く太平洋の水域に亘り、 どれだけまでの共通点が 見出せるかというのが、 本来の文化史に対する我々の無限の興味でもある」 と書いているように可能性を海の方へ強く向けている。
これとは別に南方的な要素が考えられるとして古代民族の習性を基本に、 珍しい研究発表をている『北方の民族と文化』 (東大名誉教授大林太良著)のなかの「見付天神の裸祭り」を 取り上げて考察してみたい。 その中心となるのは柳田国男の南方渡来説とほぼ同様の考え方があり、 腰蓑の系譜、里芋と新ワラ、 豊玉姫神話の痕跡などで詳述しているので次に記す。
腰蓑の系譜
日本の腰蓑についてまだまとまった研究はないといわれているが、
腰蓑の分布を見るとオセアニアのメラネシア島、ミクロネシア、
ポリネシアに女性の服装として分布している。
東南アジアではスマトラの
ニコバル諸島の北部、メンタウエイ諸島、
それに東部インドネシアやフィリピン、
大陸部ではアッサムの一部に分布しているという。
腰蓑は東南アジアでもオセアニアでも僻地に多く分布しているので、
非常に古い文化要素と考えられているが、
何れも女性の服装であるという。
もとは男性も腰蓑をつけていた場合が多かったのが、
褌の進出で古い服装の腰蓑は女性の服装として残ったという。
世界的にも同様な傾向はあるとして、ヨーロッパでは、
古い服装のワンピースは
女性の服装として現在でも盛んだが、
男性のほうはイラン系の遊牧騎馬民族文化から入った
ズボンに圧倒された例があると説明している。
日本では『日本書紀』の天武十年八月の条にある多禰国(種子島) に髪を切りて草の裳きたり」とあり、 また薩摩半島の知覧町では「ソラソイ」 の行事のとき子供たちは粗い腰蓑状の袴をつける。 また『万葉集』巻九一八0七番の東国の美女葛飾の 「真門の手児奈(ママノテドナ)」が着ていたという 「直さ麻の裳(ヒタサオノモ)」があり、 松岡静雄氏の説では語義から 「直条の麻緒(ヒタノサオ)」であるから腰蓑で あったと思われるとのことである。
日本の腰蓑で考えさせられることは 海人の文化との密接な関係が見られる。 それは子供の頃見た浦島太郎の絵は腰蓑姿であるし、 安藤広重の絵で墨田川の漁師が腰蓑姿をしている。 また紀州勝浦の漁師の人形も腰蓑姿であり、 長良川の鵜匠も腰蓑姿である。 鵜飼は中国では揚子江から南に分布していて 水稲耕作地帯の典型的な漁猟の仕方であるが、 水稲耕作とともに移入されたろうという 可児弘明氏(慶応大教授)の研究がある。
里芋と新ワラ
浜ごりのとき見付から里芋の煮たものを持参し、
途中で大原の農家の人達との間で新ワラと交換する習慣がある。
これは水稲耕作者と漁民との文化の交流とも考えられる。
また松原の神事の放生会は海岸の漁民文化が現れているともいえる。
もともと農業の神である矢奈比売には雑穀栽培型の
粟、大豆、小豆などを献上するが、
そこにはそれ以前の焼畑農耕の伝統がうかがえる。
つまり一方では山の文化、他方では水稲耕作とプラス漁猟文化があり、
この両者の間に儀礼的な交換が行われるという解釈をすると面白い。
このことは佐々木高明氏の説にあるように、
縄文後期に焼畑耕作が入ってきたとしても、
弥生時代になったら水稲耕作に
すっかり切り替わって仕舞った訳ではなく、
やはり併存しその間いわゆる「共生」関係が成立していて、
お互いに本来の生活様式の伝統というものを変えないで、
利益を与えあって共存するという関係を現しているといえる。
見付のマチが古くからあって、 農村地域という異なった生活様式の人との共生関係が、 このような儀礼という形をとって、 浜ごりのときにワラと里芋の交換行事として残り、 共生関係が見られるのは、 生活様式が発達した跡を止めているということを 同じに考えさせられる事柄である。 野本寛一氏は祭神の矢奈比売は本来「山比売」 ではなかったかという説を発表しているし、 焼畑による作物を与えてくれる神であり、 また稲作に不可欠な水を与えてくれる山の神の姿がそこに見られるとし、 このような共生関係にあったのかも知れない。
豊玉姫神話の痕跡
磐田地方には袖師ヶ浦伝説がある。坂上田村麻呂東征伝説のうち、
磐田の海を渡ったときの赤蛇の話と、海の潮干きを支配する玉を与えて
姿を消すという話は日本神話の豊玉姫神話に関連している。
これは海幸彦、山幸彦の兄弟がいて、 山幸彦は釣り針を求めて海神の宮に行き、 海の神の娘豊玉姫と結婚する。 豊玉姫が臨月になって夫の住む陸地の海岸に産屋を造りお産するが、 産屋の中を見ないでくれという要求をしたにも関わらず、 夫は中を覗いてしまう。すると豊玉姫は竜となってもだえ、 別れてしまうという有名な話がある。 坂上田村麻呂の袖師ヶ浦伝説は、この豊玉姫の伝承にほかならない。 これは海人民族の文化伝承と考えられる。
悉平太郎伝説
古代の生活では災害があったときや田畑の収穫が悪い年、
病人が多いときなどがあると、それは荒御霊の祟りであると考えたので、
その対応として山の幸や海の幸など最大の献上品を捧げたりして、
荒神を鎮めるためのお祓いの行事をして安全を願うほかなかった。
その荒御霊といわれるものが天神であり農業の神である矢奈比売神であった。
そのときの最大の献上品が「人身御供」であったのかもしれない。
その方法としては災いを取り去るために
祭の日に男の子を生け贄にしたとも伝えられている。
しかしこのような悪弊はやがて消えることになるが、
神と人々を納得させたうえで悪弊を止めて平安を願うのには、
それなりの理屈が必要であった。
野本寛一氏は悉平太郎は山犬系の犬で、 焼畑農耕の害獣としての猿をあらわす狒々を退治する話だという。 このような怪物退治の犬の伝説は全国に分布していて、 北は山形県高畑町の犬の宮、 南では熊本県の犬薬師などの広がりがあるという。 見付天神の場合は天竜川を通じて信州と遠州の間の深い関係が注目される。 この話では犬と怪物との組み合わせであるが、 朝鮮では竜と狐が争い人間が竜に加勢するという形になっている。 またこれに類似した神話は日本、中国、朝鮮に多く分布しているというが、 形としてはさまざまに変化して残っている。 そのうち共通しているのは蛇、狸、狒々という山の主のようなもので 人間の制御の外にあるもの、つまり人間の支配の及ばないものと考えられ、 むき出しの自然をあらわす怪物的な動物を、 人間が飼っている犬がやっつけるという形になっている。 それは自然に対する人間の文化の勝利というものをあらわしているともいえる。 一歩深く踏み込んで考えてみると、 そこには自然と文化との間の関係が述べられていて、 どの話も自然のむき出しの暴力を人間が文化を以て克服することが現れている。
こういう神話や伝説ができた時代というのはある意味からいうと 人間はまだ幸福な時代であったということができる。 つまり人間の持っている可能性というものを、 楽観的に信ずることができた時代であったからである。
見付天神の裸祭りは、単に勇壮活発な祭りであるというだけでなく、 日本の文化史を考える上においても、 また人間文化というのはいったい何かという問題を考える上においても、 いろいろの問題を提起してくれるお祭りだということができる。
古くから受け継がれてた見付天神裸祭りの祭事の内容は、 別項にゆずりここでは省略する。
平成8年7月 熊切正次
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