〔当たり前の風景〕

 しかし、この結婚を機に、やはり僕のビジネス、僕と言う人生を支えてくれた大きな立役者は、 僕の女房です。女房と共に二人で歩んでまいりました。 今は会社も少し大きくなりました。 10月には東京に新会社をもう一つ作りました。 そういう発展の中で、いまだに女房は、僕を横で支えてくれてます。 しかし、この女房との出会いの中から、 今日皆さんに一つのヒントが提供できればと考えております。 学生時代からの友人でありました女房、今はビジネスのパートナーでもあります。

 先日NHKの特集などを見られた方もいらっしゃるかも分りませんが、 僕は女房のことを人生の最良の友と呼んでおります。 本当に何でもしゃべれて、そして人生をお互いが横を向くんじゃなくて、 お互いが共通の前を向いて歩んでくれるパートナーに出会えたことを、 僕は本当に喜んでおります。

 ただ、僕と女房の間にはいろんなことがありました。 例えば結婚を機に、子供という問題です。女房は子供が欲しいと言いました。 正直申上げまして、僕は子供なんていいだろうと思ったんです。 僕はどんどんどんどん体が悪くなります。 体が悪くなるのに、そこで子供が生まれて本当にやっていけるのか、 という大きな不安がありました。 女性というものは強いなぁとつくづく思ったんですね。 女房は
「大丈夫よ、そんなこと、時間なんかあっという間に経つから、 もし、遺伝性が無いんだったら子供を作ろうよ」
幸い調べましたところ、非常に珍しい筋ジストロフィーの一種だものですから、 遺伝性はほぼゼロだという事が分りまして、結局僕は納得しました。

 一人目はよかったんです。その子供がやがて2歳3歳となるうちに、女房は、
   「あんた、もう一人子供を産もうよ、」
僕は本当に、こいつは頭が狂ったんじゃないかなと思いました。 一人でも大変で、僕はもう寝返りが出来るか出来ないか、 そういう状態になっていた頃なんですね。 そして,どんどんどんどん体が悪くなります。 そして、女房はまた僕の仕事を支えてます。 そこで子育てをし、僕の介護をし、 そして、やっと一段落しようとしている子育てに、 もう一つ子供を作ろうと言うんです。

  僕は「なにを考えているんだ」と言いましたところ。 「子供にとって一人より二人がずっといいよ、 私達が今子供として扱っている間はいいけれど 子供が成長しあった時、相談出来る兄弟が居た方が良いかも分らないよ。」 こう言うんです。だけどお前本当にやっていけるのか、 と言いましたところ女房はすぐにこう言いました。
   「一人も二人も同じよ、時間なんてあっという間に流れる、 ただその間に、この子供たちが成長した時に、 相談出来る兄弟が居た方がいいよ」
僕はこの時本当に強いなぁと思いましたねぇ。

 そして今は目出度く、上はもう中学校一年生になりまして、 下は小学校4年生です。 やんちゃな男の子の父親という役割もやらさせて頂いております。 ただ、子供が生まれました時、僕はもう一つの事を決めたんです。 この子供は、僕を親父と選んで生まれてきたわけじゃない。 僕は女房と相談して、 この子を作ろうと決めた。この子は僕を選んで来ていない。 そうした時に、 健康な方々より僕には物凄く責任感がのしかかるんです。

 僕の子供として生まれた以上は、精一杯の事をして上げたい。 ただこの子は、恐らく記憶の中で僕が歩いた姿、立った姿というものは、 一度も見ない。 そうすると家の中や、会社の中では偉そうにしている親父、というものと、 表へ出る時のギャップ、僕はここを考えたんですね。 そして、僕も女房も旅行が好きだったものですから、 とにかく子供達を連れて、 とにかくいろんなところ旅をしよう。 これは小さな時からずっと決めて未だに続けています。

 子供がまだ首も座らない3ヶ月4ヶ月のうちから僕の膝に抱いて、 そして僕は手をずっと上でしばらしてもらって、 女房が運転して旅行をスタート致しました。 最低で年に2回、最近では年に3回、この12年間、 子供達とずっと海に行ったり山へ行ったり、 色んな所に行きました。 お蔭様で子供にとってボランティア教育とか、そういう事を全くしないうちに、 車椅子の親父が社会の中で同化していると言うことが我が家の中で作る事が出来ました。

 車椅子に対する思いやりとか、そして不自由な方々に対する思いやりとか、 僕はこういう教育というものは非常に重要だと思いますけれど、 やはり教育の原点というものは、家庭の中にあると思います。

  例えばですね、面白い事があったんですよ。 上の子が丁度保育園の最年長、6歳ぐらいの頃ですね。 僕は子供の生誕誕生会とか、運動会とか、必ず出るようにしておりました。 ところが、その、生活発表会を前にして面白い事がありました。 どういう事かと言いますと、 僕の家に上の子供がもう年がら年中友達を連れてくる様になっていました。 何故かと言うと、車椅子の親父というものを、生まれた時から全く意識していないんですね。 そして色んなところへ行きます。色んなところへ旅をしています その中で、もう風景に子供の中ではなっていたんです。

 そうした時に、色んな子供達を連れて来ますとね、 面白い実験があるんですよ、皆さん。 例えば、うちの我が家へもうしょっちゅう遊びに来ている子供達は、 うちの子、長男哲朗というんですね。あ、哲ちゃんのお父さんは車椅子だ。 動かないという事をしっています。 風景になっています。ところが、はじめて我が家へ来た子供達は面白い洗礼を受けるんです。 初めて見る車椅子の不自由な中年のおっちゃんというものを間近に見るんです。 そして、
   「こんにちはー」
と言って入って来て遊んでいます。 そうすると、最初は分らないんですけど、僕の車椅子をずーっと見ています。 不思議なものがあるなぁという感じなんですね。 そして、僕が、
   「哲ちゃん、ちょっとお茶飲まして」
とか言って、ストローでお茶飲ましてもらっていますと、 ジーッと横で観察しています。 で、ここで皆さん、大事な事があるんです。 よく不自由な人を見た時に、子供たちがジーッと注目したり、子供たちが、
   「あの人なんであんな変なもの乗ってんの」
と言った時に、よくですね、
   「そんな事言ってはいけません。あの人は不自由なんです。」
これはですね、 逆差別を教えるんです。 子供達にとって変なものは変なんです。いいですか。見た事も無いものに興味を持つのが子供なんです。 その時は自然に遊ばすんです。

 僕はまた儀式が始まったなぁと思って、うちの女房はいつも分ってますから、横でニヤニヤニヤニヤ笑ってるんです。 その子供達ジーッと見ています。 そして僕は、実は僕は煙草が好きでして、毎晩のビールと煙草というものは、 体が悪くなってもやめられないんですね。 そして、哲ちゃん、ちょっと煙草すわしてと言うと、例えば、哲朗の友達でゆきちゃんと言う女の子がいます。 ゆきちゃんなんて、
    「あ、おっちゃん、ゆき子がつけてあげる」
と言って、 そういう介護の真似事をしてくれます。 そうすると、ジーッと見ています。 そして、哲朗に聞くんですね。
    「哲ちゃんのおとうさん、なんでお茶自分で飲まないの」
    「哲ちゃんのお父さん、なんで煙草自分で吸わないの」
そして哲朗はゆきちゃんに
    「ん?うちのお父さん身体動かんから」
    「なんで身体動かんの」
    「ん、病気」
もう風景なんです。 そして、
    「ふーん」
と言いながら、段々段々その子は、もっともっと興味を持ってきます。 そして僕に近付いて来るんです。 で、僕はその時だと思って、
    「おっちゃんね、病気で身体動かんのだよ」
    「ふぅーん」
    「 おっちゃん、ほんとに体うごかへんの?」
って聞くんですね。
    「これなにー?」
    「これ車椅子言うんだ。押してみるか」
ちょっと触ってみます。 こわごわです。はじめておもちゃに触るようなものなんです。 これでいいんです。 そして僕は、
    「おっちゃん本当に手動かないよ。おっちゃんの手持ってみい。」
と言って手を持たせます。 って言って手を持たせます。
   「 手を上へ上げてみぃって」
言って上へ上げさせます。
   「 手を離してみぃ」
って言うと、僕の手がバタンとテーブルの上に落ちます。 そしてその子は笑い出します。    
「わっ、本当に哲ちゃんのおっちゃん体動かない。手も動かないの」
と言います。
    「手も動かないよ」 言います。
    「グーチョキパーして見て」 言います。
「グーチョキパー出来ないよ。ただね、おっちゃんジャンケン強いよ。」
言うんです。    
「うそー、グーチョキパーも出来ないのにジャンケン強いの?」

だからいきなりグーチョキパーですね。 そして聞くんです。ルールはチョキ無しジャンケンです。
    「チョキ無しジャンケンジャンケンほい」
と言うと、僕はいつもパーしか出来ませんからね。 僕は必ず勝つんです。 3回ほどやると、おっちゃんずるいと言うことで、もうその子にとって不自由という事は決して特殊じゃない。 あっ、このおっちゃんは体が悪くて動かないんだな。という事実に変わるんです。

  ここであんまり、理屈や大人のルールを、子供に教えると、子供達というのは非常に敏感ですから、 ハッと構えちゃうんです。 言ってはいかん事を言ってしまうんです。 これは決して僕は良い教育だとは思いません。 生きて行く中で、ビジネスというものを、自分で一所懸命生き残るために、 拡大させながら、家庭という中で子供達と僕の戦いというものは、 色んな形で楽しみながら進んでまいりました。

  一番嬉しかった思いでもあります。 それは何かと言いますとね。 今から、そうですねぇ、確か4年ほど前ですか。 実は今子供達スキーに夢中なんです。 実は今から5年ぐらい前までは、まだ下の子供が小さかったですから、 夏は北海道へ行って冬は沖縄へ行くというのが我が家のスタイルだったんです。 夏は涼しい所へ行って冬は暖かいところへ行こう。 沖縄でお正月を過ごすと言うのが大体僕のスタイルでして、 ところがある時スキーを子供が覚えまして、 そしてそれからは逆転しました。 夏は沖縄へ行って冬は岩手県の安比高原という、まあ、安比という所へ仕事で行きましたところ、 非常に良い環境があったものですから、そこへスキーに連れて行くようになりました。 そして、もう子供立ちも僕の手を離れたのに、ある時NHKのディレクターが来られまして、 「いやー春山さんのところは本当に子供たちがよくお父さんを助けてくれますね」と、 とういうふうに教育したら、こうやって自然な形で、子供が親をサポートするような、 そういう教育が出来るんですか、自分も同じような子供がいるけれど、とってもそうは行かない。 春山さん教えてくださいよ」と、僕にこう言うんです。 で、僕は次にこう申し上げました。 「僕は子供達にボランティア教育とか、不自由な人々への思いやりとか、 そんな教育を一回もした事はありませんよ」と、 ただね、僕達家族は助け合わなければ生きて行けないんです。 それを子供たちが横でジーッと見ているから自然と助けるようになるんです。 原始、人間というのものは、恐らくこういうもんだったんです。 僕は寝返りが出来ません。ただ、神経がありますから、痛みで毎晩6回も7回も起きるんです。 その度に女房を起して僕は寝返りをさせてもらいました。 そういう事を子供達はジーッと小さい時から横で見ています。 朝起きてから寝るまで、、寝てからも僕たち夫婦は、 サボれないんです。 朝起きる、子供を学校へやる、子供を学校へやったと同時に僕を抱き起しに来る。 僕は寝返りも起きる事も出来ません。 そして、僕の下着を脱がして、僕を車椅子に乗せ移して、そして、トイレに連れて行って、 僕をベッドに座らせて、一寸も安定が悪いと僕は前へ落ちちゃいますから、 そして、僕の用をしながら、自分の身支度をするんです。 歯を磨かせて、そして、またベンチから、そして車椅子に移して、 エレベーターで一階へ下りて、そして身支度をして、そして車に乗って、 何もかも真剣勝負なんです。 生きるという事に手を抜けないんです。 それを子供たちが横で見ておりますと、 自然な形で家族というものは力を合せられるのです。 もうそれから子供達も大きくなりまして、 僕としょっちゅう飛行機で色んな所へ遊びに行っております。 もうこのごろは風景です。そして、ある日こういう事があったんですね。 大阪空港へ着きまして、女房がしたの子供の何かを買いに行っておって、 僕は飛行機のカウンター前で確か手続をやっておりました。 約2,3分間の間手続をやっておりますと、 実は昨年うちの秘書がカウントしました所、僕は一年間に伊丹空港から、 110回出たんですね。 一年間に220回飛行機に乗った事になります。 3日に一回は、僕はどこかへ行っています。 そういう中で僕は、空港職員の方はほとんど僕のことを知っているのですけれど、 ただその時はたまたま、僕の事を知らない空港職員だったんです。 そして女房が一寸離れたすきに、哲ちゃんが、うちの坊主が、お父さん、僕が見てるから大丈夫、と言って、もう慣れたもんで、 飛行機の手続いっしょにするんです。 そうした時にですね、そのJALの職員は、恐る恐る僕に聞くんです。 「あのう、失礼ですけれど、航空規定で、車椅子で搭乗される時はどこが悪いのかお聞きする事になっております。」 時々実はこういうことを聞かれるんです。 ただ、ほとんど知っている方なんで、「あ、こんにちは」と言って僕はそのまま行きますけれど、その時は新人だったものですから、 僕の前へ来てこう言うんです。 何か、聞いていかん事を聞かなければならないという、 物凄く申し分けなさそうに僕にこう言うんですね。 「あのう、失礼ですけれど、どこがお悪いんですか」 そうするとうちの坊主がやってきまして、こう言ったんです。 「うちのお父さん、うちのお父さんね、頭がいかれてんの」 こう言ったんです。 うちの坊主にとっては洒落なんですね。 うちのお父さん。もう変な洒落ばっかりで頭がいかれてんの。 こう言ったんです。 そうするとこの空港職員は、凍っちゃいました。 もう完全に凍っちゃいまして、なんと言ったかというと、 「わかりました」 わかってもらっては困るんですけどね。実は。 ただねぇ、僕はこの時は嬉しかったんです。 この子が親父の障害を洒落にまで言えるようになった。 ああ、僕は何とかここまで共に暮らして来れたなぁと、何とかここまでの戦略は成功だったなぁと思ったことが一つの思い出です。




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