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地名考 / 遠江・磐田・見付
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内 容
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参考資料・注釈
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遠江
1.「和名抄に、遠江、(止保太阿不三、國府在ニ、
豊田郡一)名義は、或書に引る遠江国風土記の逸文に、
近江始書ニ淡海一.有ニ
大江一.自ニ帝都一
近、故改ニ近江一.
又遠江始書ニ遠淡海一.
此國有ニ大江一.自ニ
帝都一遥遠、改名ニ
遠江一.とあり、もと阿波宇美なりしを、
後に京よりの遠江によりて遠つ淡海近つ淡海とせられたるを、
必用ニ二字一の例なれば
遠江近江と書る事とはなりぬ、
さるを和名抄に止保太阿不三とあるは転約なるを、後世止保多不三と云り、
いよゝ約りたるなり。」
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『諸國名義考』上(遠江)
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2.「遠江国 止保太阿不美 按遠江修ニ遠淡海一
也、水土部引ニ広雅一云、湖大池也、
和名美豆宇美 狩谷氏曰、湖者淡水、而広大如レ
海、故有ニ水海、
大小一.俗皆呼為レ
江、左伝正義、江海、水之大者、此用ニ
江字一本レ
之、州有ニ浜名磐田ニ湖一.
国名因起、其冠ニ遠字一
者、別ニ近淡海一也、和銅有レ
制、定為ニ今字一。」
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『日本地理志料』十一
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3.「所三以号ニ遠江一
者、上古国之墺区有ニ淡海一.
去ニ皇都一
遥遠,故号ニ遠津阿不美一
淡海則磐田海也、(淡海国玉神社在ニ磐田郡一)
海之西東原野、南湖海、北大河、大河水落而湖不レ
泝、沙土弥積洲渚弥乾、変為レ
島、号ニ長田郡一.
(俗曰ニ中郡一)今度
レ之凡西東三里、南北五里。」
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『遠江國風土記傳』
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◎ 大きな淡水湖があるところから、淡海と称し、
都近くで大きな湖のある国を近つ淡海というのに対し、
都から遠くにあるので遠つ淡海=遠江となったという点は異論がないようであるが、
その「大きな湖」はどこを指すのかという点で諸説ある。
@浜名湖
A浜名湖・磐田海(大乃浦)両方
B磐田海(大乃浦)
Cどちらとも決め難い
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磐田
「伊波太 初見霊亀元年五月紀遠江石田郡、天平九年駿河国正税帳
磐田郡、宝亀二年三月紀 遠江磐田郡」
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『遠江』日本國資料叢書
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1.”稲穂田(いなほだ)”より「いわた(岩田・磐田)」とする説
「所三以号ニ伊波太一
者、雖レ不レ
伝ニ其基一.依ニ
宝飯郷名一考レ之者、
則約ニ転稲穂田之訓一
而号ニ伊波太ニ
也、以ニ佳言一
負ニ地名一
者古命也、(非ニ磐田之字儀一)」
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『遠江風土記傳』
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2.”石津太(いわつた)”より「いわた」とする説
石津太神社(いわつたの−)
鎮座地:和泉国大鳥郡下石津村(堺市浜寺石津町中丁501)
祭神:蛭子命・天穂日命・八重事代主命
由緒:石津太社/和泉国大鳥郡24座内 『延喜式神名帳』
物部氏一族(石津連)の氏神と伝えられる。
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『大阪府の地名U』
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物部氏の一族が遠江国造となり、氏神である石津太神社を祭った、ことから
「いわた」という地名になった。入見神社がそれであるという。
※ 入見神社の祭神は、物部氏の一族で遠江国造の祖「印岐美命(いきびのみこと)」とされている。
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『神名帳考証』(度会延経)
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◎ もし、遠江国造が奉祀した入見神社(石津太神社)が岩田神社とすると、
岩田神社を遷宮して淡海国玉神社としたとする『遠江國風土記傳』の説をとれば、
遠江国造が奉祀した神社を国府内に遷宮したこの神社を遠江総社とした。
もしくは、遠江総社として遷宮したということになる。
しかし、両社ともその祭神に印岐美命が見えない。両社の祭神は共に大国主命(大巳貴命)である。
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見付
記録上における「見付」の初見は、『十六夜日記』(阿仏尼/1277)
「こよいは とをつあふみ みつけのこふ
という所にとどまる…」
◎ 江戸時代以前は、「見附・見付」と書かれ、明治期以降は「見付」とされる。
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見付の国府
そのほか「遠府」ともいわれた。
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1.”入海付の地”により海付→「見付」とする説
@「駅家相連名見附宿 所以号見附者、入海付之地也故負名 西坂東坂北井等為之名」
(駅家に相連り見付宿と名づく、見付と号する所以は、入海付の地なり、故に名に負へり。西坂・東坂・馬場・北井等これが為の名なり。)
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『遠江国風土記傳』
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A「見付ハ其古名ヲ伊摩ト謂ヒ考証頗ル正確ノ様デ、伊摩ト今トハ国音等シク
伊摩ノ駅ニ沿ッテイタ入海ヲ今ノ浦トイッタ。而シ伊摩ハ今デ其ノ以前ハ駅路北方ニアッタガ、
入海ノ址漸々斥トナッテ現在ノ所ヲ交通シ、駅家モ亦移ッテ此ノ地ヘ来タ為メニ、
入海即伊摩ノ名ヲ負ッタモノデハアルマイカ。見付ハ入海ヨリ来タ名デ、浦ノ名ハ
駅ヨリ来タモノデアラウ。」
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『地名辞書』
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2.”富士山を(初めて)見る所”により「見付」とする説
@「元和七年九月廿七日 袋井の里を過て見つけの國府に着 里人に逢て此所を
何によりてかく云ぞとゝへば 富士山を初めて見付けるによりて と語る」
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『元和七年東海紀行』
(続々群書類従、地理部)
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A「見付宿は濱松より四里、富士山顕に見ゆれば、見付の臺とも云ふ。」
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『東海道圖絵』
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A「地勢薬研状ヲナシ其高所ハ富士ノ観望ニ適スル所カラ 見附台ト称スル様ニナッタ。」
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『駿遠豆鑑』
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3.”菅原道真公の三男を見つけた所”により「見付」とする説
「元禄年間の記書に、抑是は天神の御敷被成候天神平と申野に御座候。
然る処、天神御息三男都にて見えさせ給はぬ故、都より御尋ね成候へども
遠江国見付天神平と申野に御座候由被聞召御院の御所より御勅使立申て其後見付近所鬼門に被為立見付の氏神と被為成候。
依て其町の名を見付と申候」
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『磐田郡誌』
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