神職が語る”裸祭余話”


● 祇園と裸祭

● お先供係

● 「御杖」より推定する裸祭の年代

● お道具の移り変わり

● 祭の推移

● お天神様=菅原道真公のお祭

● 祭神考その二

● 悉平太郎伝説考

● 矢奈比売神社はお寺の跡に?

● 「比佐麻里祭」の意味





祇園と裸祭

 中のお宮(総社)の祭<祇園祭>というのが、今から少なくとも四百年くらい前までは、途切れながらもやっていたようです。そして、このお祭がさびれてしまいます。それから、天神様の裸祭の方に見付の祭の勢力が移ってきたのではないかという感じを持っているわけです。その時代とか、その方法についてはよく分かっておりません。しかし、祇園祭の時のいろいろな万灯とか、お祭のときの町内の特殊な呼び方とか、その中にこちらのお祭にもそのまま使われているところを見ると、祇園祭がこちらの祭に移ってきたのではないかというのです。
 そのような話を「磐南文化」の6巻か7巻の頃に薬屋の主人が解説して下さった。のを読んだことがあります。なるほど、町の方がこのようなことを考えるのは当然だ、神主でもおぼろげながらそんな気がするわい、と思いながら読んだ記憶がございます。
 そういうものが研究材料としてありますので、皆様方もし読む機会があったら身を入れて読んでいただきたいと思います
 《御参考『舞車』


お先供係

 ここで、お先供係の方々がどういう方なのか、私なりの解釈を簡単に説明させていただきます。
 お先供という方々は「お道具持ち」という名前で自分たちを呼んでいるようです。
 <お道具>というのは、私の考えでは今のお先供の方々の遠いご先祖の方々が、ある時期に結束されて裸祭を意義たらしめるために、何とか助太刀をしようではないかと、強い決意をされた。その時に、いろんなお祭をにぎやかにする道具を寄付なさったというのが始まりのように思います。
 このお道具というのは、長さ約90センチ?幅約30センチ?の道具箱というものがまだありまして、毎年その箱から出して、私ども神主は準備するわけです。その道具の箱の裏に「明治二十何年」と年代が記されております。私は調べたものを持っておりますが、今日は見る間がないので詳しくは申し上げられませんが、作った日も書いてあったりします。それは、何のタレ兵衛は何を持つ。例えば「御弓 某氏・御鉾 某氏・御幣束 某氏」というように名前が書いてあり、役職も付いておりました。その方々のご親族、あるいは縁故の方々には、お先供としてご奉仕いだだいております。お先供の方々の祖先がお祭をするために、立派なお道具を支度してくれました。おそらく、昔は個人で支度なさったものだろうと思われます。今はお宮の経費で何でもかんでも支度してしまっていますけど、お先供の方々にはそういう歴史があるように思います。


「御杖」より推定する裸祭の年代

 お道具の中にはいろいろなものがあって、御幣束などは毎年一枚ずつ換えて作るのです。また、一つだけ私が関心を持っているものに<御杖>というものがあります。<御杖>というのは形はご存じだと思いますが、約一メートルの梅の枝です。梅の若枝の片方に細い麻を垂らしてあります。そして、毎年一筋ずつ加えていくことになっております。ですから、この麻の本数を数えることによって、年代が分かるかも知れないということになります。
 私もそのように考えて、数年前にその時としては非常に詳しく調べたつもりです。しかし、箱に書いてある本数と現物とが合わないんです。その理由も勝手に想像して、勝手にお先供の方々に私の調べた文を読んでいただいたことがありました。この解釈が非常に難しいんです。
 だたし、麻の数というのは数えてみましたけれど、これは年代が分かっています。と言うのは、今年付けるべき一筋の麻を新しいうちに計ってみました。その時、約5グラムありました。ですから、一年に5グラムずつ増えていくものだと勝手に考えて、全体の重さを計ってみれば、年代が出るかも知れないというわけです。それで、何本かある<御杖>を持って来て、全部重さを計ったんです。いちいち柄の重さを引いて、麻だけの重さを出して何グラムあるか何年であろうと想像したわけです。
 そして、その時に重さだけではあてにならないから、解いて数を調べようと決心したのです。実際、少し解いてみました。これは白状するわけで、こんなことをすると宮司さんに叱られるはずで、私が密かに独断でやったことです。まあ、好奇心の固まりみたいなものでやったわけです。しかし、解くことが出来ませんでした。というのは、麻というのは筋の周りに別の剥がれるようなものが付いていて、ひとまとめのようになっているわけですね。それが古くなると(束の)真ん中の麻は本当の繊維だけになってしまって、繊維を取り囲んでいる片のようなものが全部落ちてしまいます。筋ばかりになってしまうと、別の年代に付けられた筋との差があるべき何ですが、ほとんど一緒になって解けないんです。(束の)中の方の古い麻は数えることが出来ないんです。
 新しい立派にパリパリした麻は5グラムでしたが、古くなって本当の筋ばかりになったものは何グラムなのか調べたくてもそれが分かりませんでした。仕方ないから自分で勝手に三分の一である、五分の一であるという想定の元に調べて、全体を見てみました。それによると、麻は二百八十年ぐらいを最初にして付けられているのではないかと私は推定しました。
 これは、もちろん勘定を学問的に一つ一つ丁寧に仕分けていけば、出来たかも知れませんが、支度をする片手間に少し解いて調べて見るというような状態では、出来るものではありません。ただし、推定はそのくらいに出来ました。
 その時期が、先程申し上げました総社の方のお祭がこちらの方へ移ってきた年代と非常に接近しているわけです。
 だから、最初からあの様なものがあったわけではないのです。最初は非常に簡単なお祭であったものが渡御、神輿の渡御というものが盛んになるに連れて、お先供の方々が、一つの大きな結束をされる頃に、あの様なものが自然に出来てきたのではないかと私は考えております。
 その年代は古くても三百年は越えないであろうと推定しております。
 このことは余りにも学問的になって、ただ興味だけで今日の目的には合わないと思いますので、ここらでやめておきます。


お道具の移り変わり

 ところで、おもしろいことに幣束の中に二色あるんです。重たいやつと軽いやつ、そして、途中から仲間に入ったものがはっきりしております。軽いやつは重たいものの半分しかありません。
 また、書いてあるその名前だけで、どうしてこうなったのか分からないものがあります。たとえば<榊>という役職があるんです。<梅>という名前もあるんです。しかし、そのようなものは今はないんです。
 それで、私は勝手に<榊>というのは途中からなくなって、<梅>というのは、今は実際には<御杖>として呼ばれていますけど、<御杖>になったんだと考えました。ある時期までは、<榊>と<梅>があって<梅>は梅の枝一本持っていったに違いない。そして、<榊>は玉串のような形で榊の枝一つ持っていったのが最初の形に違いない。しかし、余りに<榊>は目立たなくて頼りないというので自然になくなって、<梅>は今のような<御杖>の状態に移ったのではないか。それには、少なくとも百年くらい掛かったのではないかと想像されるんです。
 そのような数字の出てくる資料を私は持っています。これは人様に見ていただくようなはっきりした根拠のあるものではありませんので、話だけにしておきます。


祭の推移

 要するに、(裸祭に影響を与えたのは祇園祭と御先供の)二種類のものがあるんだということ。したがって、これはお祭の変化を示すものであるし、御先供の方々の結束とか奉仕状態が変わっていく中で、いろいろな時代があったと考えられます。
 こういう事は、神主様のお名前とか全体の行事とかを当てはめて、更に研究を続けていくと「ここは栄えた、この時代には衰えたときがあった」というようなものが出てくると思います。後は時間的な研究であって、とても仕事をしながら奉仕する神主の出来ることではありませんので、私は断定しませんでした。
 しかし、少なくとも非常に変化があった。そして、そういう歴史の中に今の町人の方々の祭に対する熱情と、そして、中心になる御先供の方らの一つの努力と意気込みというものが込められているというように考えているわけでございます。
 今日、私の話をしたのは独り言のようで、受け入れてもらうには、更にもっと説明をしていかなくてはいけないことが多いです。しかし、感じたことだけの一片を、氷山の水に出ているだけの部分をお話ししたまでで、氷山の水面に隠されている真実は良くわかりません。ただ、このような形でこのお祭が進んできて、いろんな改革をされてきているのではないかと考えます。
 ただし、三十年間ここで直接ご奉仕させていただきましたけれど、三十年ので変わったことは、お祭の日数が短縮されたこと。それと、土曜・日曜になって、十二時までで、以降はやってはならないというお決めが出来たために、時間が短縮されたこと。したがって、それにつれて、お練りの時間とか、祭事の時間に変化が出た。これだけしか感じていません。日数と時間の変化のみで、あげもの・仕度に対しては、昔と何ら変わっておりません。
 ただ、紙だけははっきり違ってしまいました。今、紙といえば、半紙と履歴書を書くような紙とか、ノリイレというような堅い奉書の紙ぐらいしかないのです。しかし、以前は障子に丈夫な紙を貼って、エノ油というエゴマの油を塗って、丁度、唐傘に使うような紙があったのです。質も、大きさも非常に変わってしまいました。手すきのものは市販されていなくて、全て機械すきで、西洋作りで、和紙というものがなくなってしまいました。ですから、ここに掲げてある垂れなどの寸法は、お手本に見せられているものと比べると、遥かに小さく、貧弱になっていることは事実です。かろうじて、付ける場所ぐらいは経験上残っているというのが現状です。
 しかし、これは、それに慣れてしまっている皆様方にとって「何だかもっと大きくしろ」とか「立派にしろ」というような苦情が出ないことをみると、やはり、みんな同じように世の中の流れにしたがって、見る目も移ってきている。こういうのが自然の流れであろうと。
 したがって、こういう意味の変化というのも、お祭の中には随分あろうかと思います。
 しかし、それが、目立ってここでこう変わったというようなことは、日数と時間の短縮、これが中心であって後のものは三十年間同じ形で執り行われてきております。


お天神様=菅原道真公のお祭

 これからご奉仕する禰宜さんあたりには、参考になるものはなかったのかも知れませんが、今後、更に改良を加えていって貰いたいことがあります。
 先程申し上げましたように、(矢奈比売神社は)<お天神様>でありながら、なぜ、お天神様(菅原道真公)のお祭がないかという事が、一番大きな悩みでした。
 お天神様(菅原道真公)のお祭というのは三月二十五日。二十五日というのがお天神様(菅原道真公)が生存されていた頃のお生まれとか、亡くなるという非常に縁故のある日であって、どのお天神様(を祭っている神社)へ行っても、二十五日という日には、お祭をしているわけです。
 しかし、ここ(矢奈比売神社)では一切行われておりません。祭をやめたという形跡もないが、始まったというのも聞いたことがない。かと言って、それを不思議だという人もいないようです。宮司さん方の間でも、天神様(菅原道真公)のお祭をやらまいか、というような話は遂に一度も出なかったという事です。


祭神考 その二

 私は矢奈比売様はどう考えましても、生産の神様であって、地の神様であった。あるいは、池の辺りにお住まいになったことがあった。むしろ、山の中に住んでいたときの信仰として、普通、山に入る時の人が持つ信仰がある程度移行してきたようなものであったと考えます。ですから、天神様(矢奈比売命)の元の姿がここ(町場である現在地)にあったという考えは私は持っておりません。これは独断です。
 矢奈比売様の名前について非常に多くの方々が研究をされておりまして、先日も西遠女子学園の先生が先々月号の「磐南文化」という本にですか、大変難しい言い回しで<山ノ神>らしく論文を載せてみえました。あれで良いわけです。
 私は<山ノ神>というものに対しては、本当の<山ノ神>ではなくて、<ヤマ>という一つの昔の生活圏からくる自然の山というものを崇めだしたということを思います。


悉平太郎伝説考

 私の疑問は(裸祭と)悉平太郎の伝説との結び付き、あるいは、御池のお祭、お立ちの時の神饌(特殊神饌)のことです。海と山と御池の水との関係もそうです。
 悉平太郎の伝説ですが、シナの伝説では、退治されたのは「猪」にっております。天神様では「狒狒」になっております。退治したのはシナでは「将軍」ですが、「犬(山犬)=日本狼 以後同じ」」になっております。
 これは、山犬の信仰という山住様の関係、天竜川の関係というものを考えていただきたいと思います。
 シナから来た話は、ある立派な将軍様が猪を切って退治したとありますが、筋はほとんど日本のと同じです。こういうものはここで生まれたものではなくて、方々へ回っていって、その土地でそこの特色と結び付いて、大人になったり子供になったり、いろいろに変わっています。そして、ここではこのような信仰ができたと考えております。
山住様を初め、ここら辺には犬に対する信仰があってね、シナでは将軍でも、ここへ来ると犬になっている。
 そして、狒狒というのは人間の次が狒狒で、尊さの順序で言うと。人間の次は猿と言いますが、猿の中でも狒狒が一番偉くって、人間に成り損なったものの代表のような形で狒狒がでてまいります。
 その狒狒が犬の信仰と結び付いて、犬と狒狒になったと思われます。
 ただ、むこう(光前寺、長野県駒ヶ根市)に上げてありますお経の(写)本に付きましては、私は分かりません。


矢奈比売神社はお寺の跡に?

 このお天神様にお寺の跡と思われている石の組み込みが、あちらこちらに残っております。お寺かお宮のような建物が(矢奈比売神社が移転してくる前に)できていたのではないかと私は想像して思います。
 私の勝手な考えですが、水の付近=御池の付近もしくは皇大神社をお参りする辺りに辛うじて何かあったかも知れないと想像したこともあります。


「比佐麻里祭」の意味

 比佐麻里祭について、今、はやりの朝鮮語で解釈致しますと「(ヒサマリとは)お日様が間もなく出るよ」ということになります。従いまして、天神様のお祭は、夜中お祭して終わると日が出たと言うところから、あるいは、日の出を待つという信仰が<ヒサマリ>に成ったとすると、朝鮮から来た言葉ということになります。もっとも、怪しいですが・・・。
 以上、思い出話を含めて重点的にこれはと思うことだけをお話ししたわけです。


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