祭神考 その三
矢奈比売神社の社名呼称は全国的に他に例がなくその祭神についても明瞭な説明がなされていない。古来数々の考証が進められて「ヤマヒメ<山姫>・ヤノヒメ<矢の姫>」の二つについて研究がなされてきた。どちらにもそれぞれの拠り所があると思われるが、<矢の姫>の意は社名文字の上から進められた考え方が主になっていると思われ、<山姫>とする考えの根拠は、境内社に「山神社」が祀られていて例祭の進められて行く祭事次第にかかる神事の数々から考証されていると考えたい。
そこで私は祭神は山の姫神と推理して「山の女神」とする考証を進めていくこととする。
大林太良著『東と西 海と山』<海と山に生きる人々>に国分直一氏の論文を引用して次のように述べている。
農耕に関わりのある山の神の出現する前に、野獣の主として狩人の山の神があったし、また農民や狩人の山の神以外にも樵夫や炭焼きのように山仕事をする人の山の神もあった。そして農耕民とはいっても焼畑耕作民のところでは、山の神はまだ祖霊や穀霊への変質は完成していない。灌漑水田で稲をつくり、常畑で麦を作る定着的な耕作社会において、山の神は本格的に穀霊と係わることになり、かつ穀霊との関わりが生まれて始めて、年々これを里に迎えるという祖霊、死んでも蘇る祖霊と同一視される形式が成立する。季節的に山の神が里に来て田の神になるという交代の信仰は焼畑=狩猟民の山の神が穀作を主体とする農民の世界に取り入れられて行く過渡的経過が反映していると見ることができる。
としている。また、山の観念について野本寛一氏は『神々の風景』<信仰環境論の試み山の条>で次のように述べている。
山は常に恵みの根源である。山の恵みは水・木・鳥獣・渓流魚・茸・草・鉱物資源・焼畑作物などと、驚くほど多様である。このような恵みを生み出す山は、伝えられてきたのである。山の近くに住む人々は、山の恐怖とともにこうした山の恵みを熟知した。山から一定の距離をもって生きた人々も水源のある山、人を介して様々の勝ちをもたらす山を崇拝した。
と、こうした信仰は、山を万物生産の母胎とみる信仰であり遠く、狩猟・採集をもって生を支えた縄文人の信仰を淵源とするものであろう。そして女性である山の神への奉仕者として男は女に優先していたのであった。
山と里の境界については、神領と人領と分け、神の祟りを恐れて社を祭ることになる。その境界は地方により地形・生業等の係わりによって様々であるが、サトヤマ・オクヤマなどとわけ、里山は人の領域、奥山は神の領域として、奥山に対しては敬虔な心意は長く守られてきた。神に対する信仰心から、奥山から木や獣を得る場合には、神から頂くという意識が強かった。
現在里宮であるべき矢奈比売神社には「元天神」と呼んでいる地域があり、明治年代にこの部落内に神殿が建造せられているが以前には神殿はなかったと伝えられている。元天神こそ神の鎮座する聖地であったと考えられる。
近年になりました、見付の町の西北境にあたる丘陵の尖端部一帯に大規模な中世墳墓群が密集していることが明らかになり、磐田市文化財課の指導によって、発掘調査が開始され4年余にわたる調査が完了し、遺跡は宅地開発計画にしたがって宅地区画となった。
この開発に先立つ発掘調査には幾多の困難が散在したが、関係各位の努力によって遺跡の学際的な研究があり全国の考古学・歴史学・民俗学の研究者によるシンポジウムが開催され、その研究発表が、好著〔一の谷遺跡をめぐって『中世の都市と墳墓』<網野喜彦・石井進編>〕として発刊せられた。この著作は『磐田の民俗』と共に見付の宗教・文化を探求するにあたり多大の示峻と享受を与えて下さる。