古田清氏よりの書簡
(平成四年三月十三日着信)


 私が「神職から見た見付天神裸祭」の記録を拝見してすぐ思いましたことは,矢奈比売神社の神主を辞職した身となったので,少し異なった立場から裸祭そのものを考察してみたいと心に決めました。そこで何一つ文献・資料を持たない事情から改めて勉強しなおしたいと参考資料の渉猟をはじめました。そこで神社に奉職中に書き散らしたものを再整理しているうちに,支部の雑用とかち合って,ちょっとやそっとでは片付かないことが判りました。そこで貴方様にお電話申し上げて時間を頂く了解をお願いした次第であります。
 年が変わって気分一新してもさっぱり手につかず気に掛けているとき,たまたま図書館にて『中世の都市と墳墓』を見付けました。一読して早速谷島屋(書店)に依頼して購入しました。繰り返し呼んでいるうちに多くの貴重な教えを頂きました。
 天神社と総社との関係,海と山神の信仰,ヒソマリ祭のことなどをはじめとして,中世の見付宿の宗教・信仰・の考え方,悉平太郎伝承に関わる見方など興味有る回答に出会った感が多々あり大層参考になりました。
 繰り返し呼んでいるうちに,知識としては貴重な出会いであり学者先生方の意見は大変立派であり参考になりますが,神主としての私の立場から,研究者と実践者との食い違いは避けられませんでした。そこで、大決心をもって今一度改めて出直すことをしたいと考えております。
 こんなわけで長らくご無沙汰しておりますが,ご容赦頂きたいとお願いする次第です。お預かりしている記録をお送りいたします.ところどころ朱を入れさせていただきました。不勉強なところをお許しください.

 私の「見付天神裸祭」の後述記録を拝見したとき、良く出来ていて手を入れるところはほとんどないと思いました。そして今日になって改めて読んでみても意の有るところは、ほぼ記録されているので大変嬉しく思っております。
 それなのに、お返事のこんなにも遅くなったことをお詫びします。
 私の口述書は現在行われている例大祭の神事を,順を追って説明しただけであって「神職から見た見付天神裸祭」と題するには心許ない点が多々あったのです。祭典奉仕の神主はただ一筋に古式伝統を守って祭を行いその行事を盛り上げ,その雰囲気を次の世代に伝え行き,氏子とともにその時代に即した発展を考えればそれで良いと,いや,それが任務だと考えております。
 随って神事の解釈,意義付け,それらによる説明等をすることは慎まなければならないと,心に掛けておりました。しかし,私にとってその本義の良く判らない神事は何とか解明してみたい,時代心とも言ってもよい現代的な解釈が出来たならと考え続けてまいりました。
 長丁場に渡る祭典の数々に,この祭は何を意味するのか,現在××祭<元宮祭・浜垢離・御池の神事>等の原義はどこに在るのか?どのようにして現在行われている祭に落ち着いたのか,それは果たして初めから行われてきたのか? 疑問は増すばかりで容易に結論は出て来ない。
 こんなことを何時も頭の隅に残しながら奉仕を続けてきました。
 私が磐田南部支部長に任命されたとき,永年共に励んできた西尾宮司さんの退職、奉仕神社の多いこと齢70歳を越えたことなど,考えに考えて退職する決意を固めました.思い返せば私の神主生活は天神社奉仕から始まりすでに30年になっておりました。
 支部長を拝命してから5年,多少のゆとりも持てるようになり天神社の神主としてのこだわりを乗り越えて永年の懸案を考えてみたくなりました。
 ここで「見付天神の祭」<以後「祭」と略称>の疑問点を掲げてみよう。

1.元天神とは・・・「矢奈比売神社の祭神」<以後「祭神」と略称>は太古に元天神と呼ばれる処に顕在し、後世<年代不明ながらも>現在地に祀られたと一般に信ぜられているがそれは事実であろうか?

2.例祭の前夜「御池の清祓」と言う祭事については,口述にては例祭の前夜祭であるべきであって「はらえ」を祭の本旨とする考えには同意しにくいとしたが,何時頃から両者の混同が始まったのか?

3.例祭の深夜の深夜の祭神の渡御にはどんな意味があるか?静寂な内の速歩行動には?「ヒソマリ祭」という伝承との関連は?また天御子神社の祇園祭の渡御との違いは?

4.お宮の祭神は中央の神殿に、東の神殿には菅公が合祀せられている。菅公の勧請日は旧暦八月十日と伝えられ祭神の例祭日と重なっているが、例祭日の移動変更はなかったであろうか?更に「悉平太郎」の快挙の日も八月十日と重なっているのはなにを語っているのか?八月十日という日はどんな日であるのだろうか?

5.神霊渡御の際に行われる数々の神事は、神輿出発前の山神社の祭典も含めてどう考えるべきか?

疑問は次々と出てきて限りがありませんので列挙するのはこのくらいにして、やはり祭の順序に従って考えていくことにしましょう。


● 祭神考 その三

● 八月十日・十一日





祭神考 その三

矢奈比売神社の社名呼称は全国的に他に例がなくその祭神についても明瞭な説明がなされていない。古来数々の考証が進められて「ヤマヒメ<山姫>・ヤノヒメ<矢の姫>」の二つについて研究がなされてきた。どちらにもそれぞれの拠り所があると思われるが、<矢の姫>の意は社名文字の上から進められた考え方が主になっていると思われ、<山姫>とする考えの根拠は、境内社に「山神社」が祀られていて例祭の進められて行く祭事次第にかかる神事の数々から考証されていると考えたい。
 そこで私は祭神は山の姫神と推理して「山の女神」とする考証を進めていくこととする。
 大林太良著『東と西 海と山』<海と山に生きる人々>に国分直一氏の論文を引用して次のように述べている。

 農耕に関わりのある山の神の出現する前に、野獣の主として狩人の山の神があったし、また農民や狩人の山の神以外にも樵夫や炭焼きのように山仕事をする人の山の神もあった。そして農耕民とはいっても焼畑耕作民のところでは、山の神はまだ祖霊や穀霊への変質は完成していない。灌漑水田で稲をつくり、常畑で麦を作る定着的な耕作社会において、山の神は本格的に穀霊と係わることになり、かつ穀霊との関わりが生まれて始めて、年々これを里に迎えるという祖霊、死んでも蘇る祖霊と同一視される形式が成立する。季節的に山の神が里に来て田の神になるという交代の信仰は焼畑=狩猟民の山の神が穀作を主体とする農民の世界に取り入れられて行く過渡的経過が反映していると見ることができる。

としている。また、山の観念について野本寛一氏は『神々の風景』<信仰環境論の試み山の条>で次のように述べている。

山は常に恵みの根源である。山の恵みは水・木・鳥獣・渓流魚・茸・草・鉱物資源・焼畑作物などと、驚くほど多様である。このような恵みを生み出す山は、伝えられてきたのである。山の近くに住む人々は、山の恐怖とともにこうした山の恵みを熟知した。山から一定の距離をもって生きた人々も水源のある山、人を介して様々の勝ちをもたらす山を崇拝した。

と、こうした信仰は、山を万物生産の母胎とみる信仰であり遠く、狩猟・採集をもって生を支えた縄文人の信仰を淵源とするものであろう。そして女性である山の神への奉仕者として男は女に優先していたのであった。
 山と里の境界については、神領と人領と分け、神の祟りを恐れて社を祭ることになる。その境界は地方により地形・生業等の係わりによって様々であるが、サトヤマ・オクヤマなどとわけ、里山は人の領域、奥山は神の領域として、奥山に対しては敬虔な心意は長く守られてきた。神に対する信仰心から、奥山から木や獣を得る場合には、神から頂くという意識が強かった。
 現在里宮であるべき矢奈比売神社には「元天神」と呼んでいる地域があり、明治年代にこの部落内に神殿が建造せられているが以前には神殿はなかったと伝えられている。元天神こそ神の鎮座する聖地であったと考えられる。
 近年になりました、見付の町の西北境にあたる丘陵の尖端部一帯に大規模な中世墳墓群が密集していることが明らかになり、磐田市文化財課の指導によって、発掘調査が開始され4年余にわたる調査が完了し、遺跡は宅地開発計画にしたがって宅地区画となった。
 この開発に先立つ発掘調査には幾多の困難が散在したが、関係各位の努力によって遺跡の学際的な研究があり全国の考古学・歴史学・民俗学の研究者によるシンポジウムが開催され、その研究発表が、好著〔一の谷遺跡をめぐって『中世の都市と墳墓』<網野喜彦・石井進編>〕として発刊せられた。この著作は『磐田の民俗』と共に見付の宗教・文化を探求するにあたり多大の示峻と享受を与えて下さる。





八月十日・十一日

 矢奈比売神社の大祭は、旧暦八月十日・十一日に執り行われている。明治五年十一月に太陽暦を採用し暦法の変化があったにも係わらず、祭の日取りには影響なく、依然として旧暦を使用して止まない。祭の日が毎年変わることは不便が多い。腰蓑の作成をはじめ祭用品・食料品などの確保には特別に気を配らなければならない。なにしろ三十日以内の日取りの変化があるからだ。昨年は九月の始め、今年は彼岸過ぎ。不便が多いのに日取りを変えない理由があるのだろうか。
 古老に伺っても、昔から行ってきたことは、自分の代で変えることはできない。と聞かされるばかりで、らちがあかない。国においては明治六年に、紀元節の日を二月十一日と固定して決めたのに、矢奈比売神社の祭の日はなぜ変えられないのか。調べることにしよう。
 神社の大祭は、その神社の深い由緒によって決まり、長く守られて変更することはなかった。このように考えてくると、まず八月に潜んでいるものがあるか、ないか調べてみたくなってくる。
 全国の大きな宮の例祭日を調べてみると、八月に執り行われる例は少ないことに気がつく。八月は祭の少ない月であることに気がつく。このことも,理由の一つに考えられないか、ほかには農作物の関係はどうだろう。八月は稲の実りの時期である。秋冬疏菜の播種・育成期でもある。といって、農繁期とも考えられない。山に入って材木をはじめ、山の幸を求める時期ではない。又、海・河にて獲物を求めるとしても、端境期と考えられるであろう。
 八月には神社の例祭が少ないと言ったが、祭がないわけではない。八朔祭を調べても、広く祭が執り行われている。八朔について調べてみる。八月一日を祝日とすることの起源は明らかでない。後醍醐天皇時代・光孝天皇時代・後深草天皇時代との説が見られる。その日の行事にも色々の解釈がある。しかし、八朔には二つの面がある。一つは稲の穂入りを前にして新穀の豊熟に関する頼みの行事であり、いま一つは平常庇護関係にある人、すなわち頼むところの人との結合を強化するための贈物の行事で、農村の節目が武士階級から公家社会にまで取り入れられたものと見ることができる。一般には実際の収穫には時期が早すぎるため、大抵は未熟の穂で焼米を作って持ち寄り、念仏を行ったり、掛け穂祭をして作物の無事な生育を祈ったりする日であった。
 八月一日が節目となった理由は、大阪府下などで八朔盆という例もあるように盆月<七月>の終わった日ということで、二月一日を正月の終わりとして二正月というのと同じ意味である。
 このように八月行事を調べてみると、八月には上<神>に願い、頼み、祈りを捧げてきた習俗があった。<矢奈比売神社例祭前日の御池の祓いの源義>
 つぎに、日について調べてみる。一日は新月、十五日は満月。十五日は特に重んじられて、年中行事が数多く行われ、正月とされた時代もあった。望月・もちの日とも呼ばれ、月に対して祈りを捧げる日でもあった。特に八月は中秋にあたり観月は有名で、イサヨイ・タチマチ・イマチ・ネマチなど欠け行く月に感傷的な愛情を注いでいる。これに反して満ち行く月に希望と感謝を捧げたことであろうと思われる。十日の月の落ちる時間と祭の行事との兼ね合いも重要なことであったことだろう。
 十日という旬日の最後の日、翌十一日という次の旬日の始めの日は喜びと希望に溢れる良き日として無条件に定められ、矢奈比売神・菅原神の祭典の日となって重んじられて変わることはなかった。





 〔参考〕
 在職中に参考文献をあさって<記録日時不明>
 『中世の都市と墳墓』168頁<八月について>保立道久先生



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