「悉平太郎」名前の由来


後藤敏完


1. 早太郎型説話の犬の名前

2. 見付の悉平太郎説話

3. 「悉平太郎」の意味

悉平太郎像



 悉平太郎説話は、私にとって小さい頃より幾度となく聞かされた馴染みのある 説話である。
 しかし、”しっぺいたろう”という名前はどうしてつけられたか?
 または、どういう意味か?
と尋ねられると、心許ない答しか持ち得ていない。そ こで、私なりに考えてみようと思いたった。




1. 早太郎型説話の犬の名前

 『矢奈比売神社の信仰と芸能』(吉川祐子、静岡県民俗学会誌6)によると、 人身御供を要求する怪神を退治する説話は「猿神退治型説話」と分類され、その 中でも犬が退治する型を「早太郎型説話」という。そして、この「早太郎型説話」 は全国で84例を数える。見付の悉平太郎説話もこの一つであるという。
 吉川祐子氏が調査報告されたこれらの説話の犬の名前を、便宜上○○太郎・そ の他の二つに分けて見てみると。
1)○○太郎 「すっぺ太郎」「竹箆(たけべら)太郎」「しっぺい太郎」 「すっぺえ太郎」「ししん太郎」「シッペー太郎」 「しんしん太郎」「こんぶの太郎」「こぶの太郎」 「権兵衛太郎」「すっぺこ太郎」「しっぺえ太郎」 「すっぺん太郎」「一平太郎」「しっぺい小太郎」 「七八太郎」「日向太郎」「平太郎」「早太郎」「ヘエボタロウ」 「兵坊太郎」2)その他 「マタギの犬」「三毛犬四毛犬」「めっけんげえすっけんげ」 ・ 「三毛ゲ四毛ゲ」「藤三郎」「めっけ犬」「三毛犬」「天地白」 「ぺっぺっぺえ」「おさく丈」「しんぺいとうざ」「黒右衛門」 「しきゃあ犬」「すっぽこ犬」「権吾呂太夫」「こんこん」 「伊左衛門」「きんとも」「こんぺいろく」「白い大きな犬」 ・・・略となる。そして、「しっぺい」の由来について、吉川祐子氏は同論文において、   1)早太郎とうように、足の速いを意味する「疾風」の訛ったもの。
  2)座禅の法具「竹箆(しっぺい)・遊びのしっぺいより、攻撃的を意味する。
とし、”しっぺい太郎”・”早太郎”は行動が素早くて攻撃力のある強い犬の名 詞化と考え、この説話の祖型と思われる『日本書記』垂仁天皇八十七年二月の条 (石上神宮の神宝、勾玉の由来)に出てくる犬の名”足往(はやたり)”に由来 すると述べている。
 また、『悉平太郎伝説ノート』(青島常盤、磐南文化20)によると、 「悉平太郎を見てくると、話の中味は昔話の竹箆太郎(しっぺいたろう)で ある。岩波文庫の『日本昔ばなしU』に竹箆太郎を載せた関敬吾氏は、『日本昔 話集成第二部の三』の猿神退治の項に類似説話の全国的な分布例を紹介している。 −中略
地元の人々の中には、郷土独特の話だと思っている方々もおられるが、実際には 全国各地に伝わる説話の一つにすぎない。さらに、大木卓氏の『犬のフォークロ ア』によれば、江戸時代の文芸にもよく取り上げられ、歌舞伎には宝暦十二年 (一七六二)初演の『竹箆太郎怪談記』・文化六年の『犬猫怪話竹箆太郎』、 黄表紙には『しっぺい太郎』・『増補執柄太郎』があるという。」
とあり、『見付天神社人身御供に就いて』(著者不詳/昭和9年)には、 「○犬の名  寺では、犬の足早きがゆえに早太郎といふと。然るに、赤穂村 の農夫に聞けば、私共は早(はや)太郎と云わずヘイボウ太郎と呼ぶが、其意味は知らぬと云ふ。 余按するに、信州の方言、早きことを「ハエー」といふ。約して「ヘイ」。ヘイ太郎と いふことが出来るが、ヘイボウ太郎には無理がある。又、同地方方言に灰色をヘイボウ 色(見付地方ではハイボウ色と云)と言えば、毛色を以て呼びし名か。 然らば、早の意には相当せず。又、一説(前出<注>日本傳説集=民俗辞典)は、早(そう)太郎・ 早(そう)坊が兵坊に訛ったのであると。又曰く、方太郎(小説「都の錦」『天神誌』 より)。随分名前持ちであるが、シッペイ太郎の出所に就いては解説がない。
 見付ではシッペイ太郎といい、早太郎と云わず(近頃多少云ふ者も出たが)。 「竹箆」が適当であらふ。賛成者は無きか。従来、シッペイ太郎と仮名書にて 事すみたり。余は今も仮名ですます者である。語、竹箆の意味は子供の遊戯竹箆返しに出ず。 油断をすると敵は意表に出で、掌を返して打つのである。老巧者たる狸(猿) が、嬉しい余りに油断が出て、犬の匂ひを嗅ぎ損ね人の匂いとした為に、犬に 竹箆返しをやられて噛殺されたのである。」
とある。この様に、○○太郎は「竹箆太郎(しっぺいたろう)」または「疾風太郎(しっぷうたろう)」 の訛伝したもので、足の早い・攻撃的を意味するという説に納得できる。




2.
見付の悉平太郎説話

 『霊犬悉平太郎由来』(小林喜雄/昭和9年、見付天神社石碑文)には、 「早太郎は疾風太郎又は悉平太郎と謂ひ、…」とあるが、前出『見付天神社人身御供に就いて』 には、「シッペイとは「悉平」と近頃用い出たせる文字である」という。そこで "見付の悉平太郎"について資料を見ると、
1) 三州来福寺の弥左衛門 「遠江古跡図絵」
 藤長庚
 享和3年(1803)

2) 丹波の国のしっぺい太郎 「遠々見ます」
 夜雨庵白猿
 天保3年(1832)

3) 信濃国光前寺の悉平太郎 「見付天神社の裸体祭」
 淡遠小史
 明治41年(1908)

4) 信濃国赤穂村のしっぺい太郎   「見付次第」
 山中共古
 明治44年(1911)

が挙げられる。
 見付の悉平太郎説話は矢奈比売神社大祭(見付天神裸祭)の鬼踊りの起源譚であるが、 『磐田の民俗』(磐田市誌編纂委員会/昭和59年)には、 「元禄三年に人々に回された拝殿幣殿再営奉加牒や元禄一五年(一七〇二)二月に行われた「菅公八百年祭行事次第」の 中の「一条天皇の正暦四年(九九三)八月一一日勅を奉じ、京都北野天神から 矢奈比売神社に(京都)北野天神(菅原道真)を勧請し、 毎年勧請の八月一一日に祭祀の祭礼を修し、歓喜踰躍の舞をなし神意を慰める」 という記述をひいて、北野天神勧請に際して歓喜踰躍の舞が鬼踊りの起源になっている可能性を示唆している」とあり、元禄の記書では人身御供伝説に全く触れていない。
 鬼踊りの起源譚は現在@人身御供伝説=悉平太郎説話A北野天神勧請の二つあるが、元禄の頃”北野天神勧請した際の 歓喜踰躍の舞”のみを鬼踊りの起源としていたとすれば、 鬼踊りの起源譚としての人身御供伝説=悉平太郎説話は、見付に於いてはこの頃までには遡ることは出来ないことになる。(長野県駒ヶ根市光前寺蔵の写経600巻には、正和5年 (1316)見付天神社に奉納とあるのみで、悉平太郎に関する記載はない)
 見付の悉平太郎説話の最も古い著述と思われるのが、1)の「遠江古跡図絵」記載の ”三州来福寺の弥左衛門”である。ストーリーは、修行僧が人身御供になった娘の母親になっていることと、 信州光前寺の悉平太郎が三州来福寺の弥左衛門であることが現在の話と異なる以外は同じである。
 次は、2)「遠々見ます」記載の”丹波の国のしっぺい太郎”である。こちらは、 信州光前寺が丹波の国であること以外は現在の話と同じである。
 1)の著者藤長庚は掛川宿の人で、2)は江戸歌舞伎七世市川団十郎であり、 どちらも地元見付の人の手によるものではないが、これらが書かれた当時の見付に伝えられていた話として 間違いないと思う。 このことから、見付の悉平太郎説話=人身御供伝説は信州光前寺の早太郎説話と 結びつく前に、犬の出自・名前は不確定ながらこの頃には存在していたと言える。 これには、前出の青島常盤氏『悉平太郎傳説ノート』にある竹箆太郎昔話を題材にした歌舞伎・黄表紙の影響も考えられる。
 では、現在に伝わる信州光前寺の早太郎と修行僧による怪神退治の”見付の 悉平太郎説話”は何時頃からであろうか。青島常盤氏によると、寛政6年(1794)に信州光前寺では大開帳が 盛大に行われた。それに先立つ寛政4年より、時の住職寂応を中心として「本尊 の御威光流布」をなし、大開帳の意義足らさんため写経の補修整備を行い、 そして写経の由来を著した。それが信州光前寺の早太郎説話とだといい、大開帳8年後(享和2年、菅公八百年祭挙行の年) には、寂応自ら見付天神に於いて出開帳勧進を行っている。 その後、天保14年には光前寺檀家2名が見付天神を参詣するなどもあり、早太郎説話は これらの時見付にもたらされ、既存の竹箆太郎昔話と結び付け悉平太郎説話が成立したというのである。*1
 しかし、寂応の出開帳勧進の翌年発刊の1)”三州来福寺の弥左衛門”、その30年後の2)”丹波の国のしっぺい太郎” でも分る通り、周知されるまでには相当の時間が必要だったことであろう。 見付の人にとって悉平太郎説話がしっかりと印象付けられたのは、見付の人達もこぞって寄進した、 安政7年(1860)に行われた早太郎五百五十年回忌だったのではあるまいか (判断できる資料に乏しいため推測の域を出ない)。

*1 本題より外れるが、青島説は、光前寺蔵の写経は第六百巻の奥書により、 見付天神社より光前寺に奉納されたのは寛政4年としているが、これには疑問がある。
 それは、奥書は当該巻書写の年を示すものとも判断でき、それをもって見付天神社よりの奉納時期を確定する証拠とはならないのではないかということである。
 この奥書より分ることは、正和5年一実坊により見付天神社に奉納された写経が、 なんらかの理由により同社より光前寺に納められたこと、寛政4年から5年に書けて142巻の補充と残存する460巻の裏打ち等の補修が行われたこと、 その経費金額・負担者、およびこの写経が見付天神社に奉納されたのは供養のため(説話にあるような謝礼ではない)ということである。
 写経がそれまで光前寺にて所蔵されてきたものであり、奥書は第六百巻の写経が 寛政4年であることを示すものであっても矛盾はない。従がって、見付天神社より光前寺への 奉納がいつだったのか、奥書からは分らないと思われる。以上、間違いを恐れず申し上げる。




3.
「悉平太郎」の意味

 では、”しっぺいたろう(竹箆太郎)”を”悉平太郎”と表記するようになったのは、いかなる理由からであろうか。
 まず、漢字の意味を調べてみると、 ”悉”… @つくす。残すところなく全部に及ぶこと。きわめつくす。
Aことごとく。すべて。残らず。皆。「悉皆」
”平”… @たいら。何事もなくて安らか。しずか。「平和・太平」
Aたいらげる。おさめる。討ちしずめる。「平定」
Bたいらぐ。おさまる。おだやかになる。しずまる。仲直りする。「和平」
     (新漢和辞典改訂版/大修館書店より)
とある。
 怪神を退治し見付の国府に平安をもたらしたヒーロー”しっぺい太郎”は、見付の人々 にとって、荒ぶる神・厄神を退散させてくれる厄払いの神・厄除けの神と信じられるようになった。 その思いが、禍をことごとく討ちしずめ平安をもたらすと解釈できる「悉平」の表記になり、足の早いを意味する「疾風」 や攻撃的を意味する「竹箆」よりも、好んで使われるようになったのではないだろうか。
 見付天神社より戴く厄除けのお札には、悉平太郎の雄姿が描かれている。

 今回調べてみて驚いたのは、しっぺい太郎についての見付の人の手による文献記録は、 明治期以降のものしか見当たらなかったということである。 それ以前のものをご存じの方がいらっしゃれば、是非ご教示を乞い願いたく、申し上げる。

 平成11年5月6日



見付天神裸祭ホームページ