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アチャー柔道・日本編

第12回「杉並日記」


アチャー柔道・杉並日記

    その男、剽軽につき

    新世界

    歌舞伎町の西郷隆盛

    世界の窓



その男、剽軽につき

コメディアンの由利徹だ!「オシャ、マンベ」というお馴染みのギャグで、ブラウン管で見る剽軽な顔と目の前の白く塗りたくった男が一致した。

「どうです、先生?」

浪花節声の男は品評会の牛でも扱うように私を由利徹の方に引っ張っていく。由利徹は私の体を上下左右いろいろな角度から眺めまわした。

「うん、なかなか剽軽な感じだな」

「そうでしょ、そうでしょ」

「花ちゃん、これ、どこで見つけてきたの?」

「近くの工事現場です」

2人で勝手に話をしているが、一体私は何のためにここに連れて来られたのだろう。そう思っていると由利徹が二言、三言質問してきた。

「お前、名前は何という?」

「は、はい、三浦といいます」

「三浦か・・・お前、車の免許は持ってんのか?」

「はい・・・」マグロ漁船から降りてから一応取っておいた。

「おー、そのとぼけた表情(カオ)もいいわい」

「それじゃ先生、これでいいですね」

浪花節語りはホッとため息をつくと、おずおずと楽屋の隅っこの方に引っ込んで行く。

「お前、明日からワシの弟子になれ」

由利徹が私に言った。

「弟子?」

やっと状況が飲み込めた。花ちゃんと呼ばれた浪花節語りは(本物の浪曲師だった)由利徹から誰か弟子になるような奴はいないかとの打診を受けていたのだろう。たまたま工事現場で私を見かけ、由利徹が公演をしている劇場に近いからそのまま連れてきたというわけだ。

「でも、いきなり弟子と言われても・・・」

面白そうだけど、実際、自分の立場を考えるとそうも行かないだろう。

「心配はいらん。3食、部屋つき、2、3枚の着替えだけ持ってくればいいから」

由利徹のこの一言は私の脳ミソを直撃した。今の私にないものが全て揃っている。いくら寮のタダ飯を喰えるとはいえ、私だって人並みに気を使う部分はある。それに四畳半に3人で寝泊まりする生活にもそろそろ膿んできているのは事実だ。私が考えていると見て取ると、由利徹は札入れから何枚かの札を取り出し、隅っこに引っ込んだ浪花節語りに渡した。

「花ちゃん、ご苦労さん」

「へい、どうもすいません」

彼はニコニコしてそれを受け取ると「それじゃ、三浦君、頑張って!」と楽屋を後にした。

「お前もせっかく来たんだからこれを持っていけ」

更に由利徹はその辺にゴロゴロしているメロンを3個、無造作に紙袋に入れ私に手渡した。

「いつから来れる?」

「あ、明日から・・・」

思わず答えてしまった。

 


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新 世 界

翌日、杉並の由利徹(・・・おっと今日から師匠だ)の自宅を訪ねた。

昨日、寮に帰って喜久さんと加藤さんに由利徹の弟子になる話をすると、最初は全く信じてくれなかった。しかし、事の顛末を聞き喜久さんは大喜びで政治家のサインをもらってきてくれと言う。(ちょっとずれている)加藤さんは「お前は何のために東京へ来たんだ」とひどく私を叱りながらも、布団の中で一人、メロンを食っていた。私としても今までこの2人の先輩にお世話になったことを考えるととても申し訳なく思うのだが、一旦やろうと決めたこと、後戻りする気にはなれなかった。私の決心が固いのを見て、最後には加藤さんも「石の上にも3年、くじけるな」と快く送り出してくれた。

由利邸に入ると師匠自らで迎えてくれ、応接間ではなく庭の端にある物置みたいな建物に私を案内してくれた。

「ここがお前の部屋だ。遠慮なく使っていいぞ」

中に入って私は目を疑った。遠慮も何も・・・広さは一畳そこそこ、布団を敷くとそれで足の踏み場がなくなる。

「着替えだけ持ってくればいいから・・・」

師匠の言葉の意味がやっと分かった。

(これなら寮の四畳半÷3人の方がまだ広いじゃないか)

しかもこの部屋、形がいびつにゆがんでいる。つまり長方形ではなく台形に近い。由利師匠はそんな私の悲痛な心の叫びなどどこ吹く風、今度は本邸に連れていき、弟子の何たるかを説明しだした。

翌日から住み込みの弟子として、新しい生活がスタートした。

6時に起床するとまず師匠にお茶と梅干しを運ぶことから私の1日は始まる。この仕事を軽く考えてもらっては困る。お茶は温度計できっちりと45度の熱さに、梅干しは小粒のものを2個、砂糖小さじ1杯を表面にまんべんなく振りかけていなければ師匠の機嫌が悪い。師匠が布団の中でお茶をすすっている間に、私は由利家の愛犬、五郎(柴犬)を散歩に連れていく。帰ってくると5種類のミソをブレンドした特殊味噌汁を作りながら、ぬかみそに手を突っ込んでお新香の準備をする。食事が終わると師匠が今日穿く2枚のパンツのアイロンがけ。(師匠はブリーフとトランクスを重ねて穿く)更には、部屋の掃除、愛車マーキュリー・モナークの洗車と次から次に仕事が待っている。これが終わるとホッと一息つく間もなく、かつらと衣装ケースを持って、師匠が出演する舞台やテレビへと日本全国かけずり回るのである。夜は寝ぼけ眼を擦りながら、台本片手に師匠の芝居の相手役、季節を感じるゆとりもなく、あっという間に年の月日が流れていった。

 


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歌舞伎町の西郷隆盛

千昌夫さんは格闘技好きをもって自ら任じている。自分も芸能人相撲大会で惜しくも宍戸錠さんに破れはしたものの準優勝だったことがすごく自慢で、ある時、テレビ局でのリハーサル中「三浦、相撲をやろう」と挑んできた。マネージャーたちは「三浦君、負けてくれよな」と耳打ちしたが、別にそんなことで機嫌を取ってもしようがないと思ったので遠慮なく投げ飛ばしてしまった。周りはあたふたしたが、千さんはかえって上機嫌だ。

「柔道部出身だけのことはあるな。しかし今度はそうはいかんぞ」

再度勝負を挑まれ、再度投げ飛ばした。

「うーむ、どうも調子が悪い。でも三浦、俺を投げるのもそう簡単じゃないだろう」

千さんにはこれがきっかけで大役をもらった。場所は新宿コマ劇場、西郷隆盛の役、と言えば聞こえが良いが、要は上野の西郷さんの銅像だ。

東北から上京し上野に降り立った主人公、千昌夫が、私の演じる(?)西郷隆盛に向かって自分の夢を語り始める。犬は張りぼてだからいいが、私は生身の人間、その20分の間ジッとしているのが辛く、ついつい動いてしまう。それが観客に受けるのを狙った演出だったのだろう。やがて千昌夫がちんぴらに取り囲まれのばされてしまうが、その間に銅像の私が台から降りて、このちんぴら達を投げ飛ばしてしまうのだ。台詞一つない他愛もない役柄だったが、私にとっては思い出深い舞台であった。

さて、この舞台も楽日を迎えようとしていたある日、

「麻雀に行くから飯でも喰って先に帰ってろ」

師匠から珍しくお小遣いと自由時間をもらった。私は幸せな一時を満喫すべく、歌舞伎町の赤提灯に入った。たまたまカウンターのとなりに居合わせた任侠風のお兄さんから「お前は西郷隆盛に似ているな!」と言われた。歯はぁ、銅像とはいえ1ヶ月近くやっているとそれなりの風格は出てくるものなのかと少し嬉しくなり「今月の舞台で西郷隆盛の役をやっています!」と答えた。すると男は西郷さんの役をやるとは大したものだ、どうだ、一席設けるからつき合ってくれ、と強引に私を引っ張っていく。何でも彼の兄貴分とかいう人が西郷隆盛の大ファンなのだそうだ。赤坂の高級料亭にタクシーで乗り付け、いざその兄貴様とご対面。黒ずくめの取り巻きが注視する中「先生、ようこそお越し下さいました」とお酌をされると、今更銅像の役だとは言えなくなってしまった。

その兄貴は私が鹿児島の出身だと聞くと更に大喜び。高級クラブに席を移し、女の子たちを相手に「こちらは西郷隆盛の子孫の方だ、お前らは頭が高い」といつの間にか話が飛躍してしまっている。帰りしなお土産までもらい、私もすっかり西郷隆盛の子孫になり切っていた。

杉並の自宅に帰ると師匠の部屋には灯りがついていた。

「こら、三浦!いつまでほっつき歩いてんだ!」

すっかりいい気分にさせてもらった分、師匠にさんざん絞られた。芸の道は辛い・・・

やがて私にも舞台やテレビのチョイ役がまわってくるようになったが、大抵は銅像、はな垂れ小僧、化け物芸者のいずれかと相場は決まっていた。どれも余り感心した役ではないがそれでも私なりに必死で演じた。どんな役でも舞台に立てばいくばくかのギャラが貰えるのだ。給料のない付き人にとってはそれは貴重な収入であった。え、付き人って給料が無いの?と聞かれそうだが、あるわけがない。(本当はあると思って入門したのだが)

しかしそのことで不自由を感じることはあまりなかった。芸能界にはアゴ・アジ・マクラという言葉があって、つまり食事、交通、宿泊のことだが、これは基本的に保障されている。後は公演先でもらうご祝儀などが自分のお小遣いになるわけだが、兄弟子のたこ八郎さんなんかは全てこれを飲み代に使う。

たこさんは元プロボクシング東洋フライ級チャンピオン、格闘技をやっていた者同士ということで、金が入ると私を飲みに連れていってくれる。それはいいのだが、逆にオケラになると「たこでーす」と私の台形の部屋(前にはたこさんが住んでいた)に現れ、「三浦あと1杯」「もう1杯だけ」と焼酎をせびるのである。一畳ばかりの部屋で、たこさん持参のお茶漬け乗りさえ無くなると由利家の愛犬、五郎のドッグフードが私たちの酒のつまみになる。この時ばかりは私も一体自分は東京へ何しに来たんだろうとしみじみ思うのであった。

 

 


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世界の窓

芸能界に入り早7年の歳月が過ぎようとしている。ここは浦島太郎に出てくる竜宮城、華やかな虚飾の世界では時間の流れがわからなくなり、決して年をとることはない。たまに外界に出て玉手箱を開けた時だけ、自分の年を思い出すのである。

芸人仲間というのは面白い。○○ちゃん!と仲の良い友達みたいな呼び方をしても心は疑心暗鬼、本当は孤独なのに、孤独を切望するような素振り。師匠の自宅や楽屋に顔を出す芸能人たちは必ずと言っていいほど仕事を探しにやってきている。しかし彼らは決してそれを自分からは口にしない。

「いやあ、久しぶりに由利ちゃんの舞台に出たよ。忙しかったんだけどさ、どうしてもって言われると俺も断れないタチでね。」

私はこの役者のマネージャーが師匠に「どんな役でもいいから仕事を下さい」と頼み込んでいるのを知っているのだ。しかしこれは決して例外的な話ではない。「武士は喰わねど高楊枝」ではないが、芸能界自体が大なり小なりこうして自分を作らなければならない世界なのだ。頭では理解することが出来た。しかし、自分の技を磨き、それで結果を出せる柔道をやってきた私にとっては違和感があった。

そんな私の最近の一番の楽しみは、舞台の稽古の合間に役者さん達から聞く外国の話であった。師匠のエジプトロケの土産話、千昌夫さんがアメリカに行ったときの話、どれもこれも私にとっては未知の世界であった。しかし様々な国の話を聞いているうちに私はある一つの事実に気づいた。言ったことがないとはいえ、ニューヨーク、ロンドン、パリ、ローマ、どの街も映画やテレビ、あるいは雑誌や歌の歌詞で一度は見聞きしているのだ。そして聞かされる話もそう大差はない。

ところが聞けば聞くほど分からない国がある。インドだ。

この国ばかりは行った人によって感想が全然違うのである。

「とても人間の住むとこじゃない。病気にならない前に帰ってくれば良かった」という人があるかと思えば「あの喧噪の中にこそ安らぎと平穏を覚えるんだよ」と悟ったような口振りの人もいる。「何が喧噪だ。ガンジス川で沐浴をしているのんびりとした国だよ」とある人が言えば「何を言ってるんだ、宇宙ロケットを飛ばす先進国だよ」と別の人が反論する。「人間がせちがらくて嫌だ」と来れば「いや、親切でホッとする」、等々。一体どんな国なんだ!

インドへ行こう!インドが気になりだして間もなく私は決心した。人によってこんなにも言うことが違うインド。きっとそこには何かがある筈だ。それは何かと聞かれても私には分からない。分からないからこそインドに行くんだ。

中学校時代、柔道を始めたのも寺前先生に声をかけられたから、その寺前先生の勧めで鹿児島実業に行き、そこで奈良や福永と知り合い大酒喰らって退学、ヒッチハイクからの帰り斎野のりりしい姿を見て鎮西高校に入り直した。船山塾での生活もあっという間に過ぎ去り、レスリングに誘われているうちに浪人生活を送る羽目になった。東京に出てきて浪花節語りに声をかけられたのが付き人生活の始まりだ。こうして振り返ってみると、私はいろいろな人と出会い、その偶然性に流されて生きてきたような気がする。そこには自分というものがあったようでもあり無かったようでもある。しかし今こうしてインドを知りたいと思っているのは、まぎれもなく私自身だ。今度は自分から出会いを求めてみよう。

 

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