「勝った!」というよりも「負けずに済んだ!」というのが偽らざる実感である。
もし負けてたらどうなっていたんだろう・・・・リュックの日の丸を見て背筋が寒くなった。
(早いところ退散しよう!)
インド人たちのこと、
どうせすぐに「シアイ アゲイン(もう一度)」などと言い出すに決まっている。
次も勝てる保障など何もない。
それにしても観客たち、一応大技が決まったのだから、
また派手に大騒ぎするかと思っていたが、意外に静かだ。
やはり地元の選手が負けたという事でショックなのだろうか。
いずれにしろここは早めにお暇するに限る。
汗を拭き拭き着替えを取り出そうとしゃがみ込んだとき、
背中に人の気配を感じた。イヤな予感がする。
恐る恐る振り返る。・・・観客、
選手が一段となってぞろぞろと私の方に向かってきているではないか。
前進の血が逆流した。
逃げようと思っても足がすくんで動かない先頭の4、5人が近付いてきた。
彼らは私の肩を押さえつけるとその場に座らせようとする。
私は恐怖におののきながらも従うしかたかった。
やがて最初の一人が跪くと、私の足の甲を触り両手を合わせて拝みだした。
それが済むと、一人、同じように膝や足に触れ、両手を合わせていく。
儀式は延々と続いた。
どれくらい時間が経ったのだろう。
気がつくと紺色のジャケットを着た一人の紳士が私の前で微笑んでいた。
彼は私の膝ではなく肩に両手を乗せて言った。
「ユーアーザ・チャンピオン」
「え?」
「ユーアーニューチャンピオン」
周りの観客や選手たちも「チャンピオン、チャンピオン」と連呼を始め、
やがてその声と共に拍手が会場全体に広がっていった。
私が背負い投げで勝った選手の名はムスタク・アーメイド。
インド無差別級チャンピオンだということをトニー・リーから聞き、
観客や選手たちの一連の行動がようやく理解できた。
「ミウラさん、このクラブのコーチ、オネガイシマス」
トニーは更にとんでもないことを言い出した。
彼はこの夏休みが終わるとパンジャーブ州のスポーツ学校に帰らなければならない。
そうすると、ここのコーチがいなくなってしまう。
指導者が必要だということは、この大会を見たミウラさんが一番分かっているはずだ、
などと妙な理屈も引っ張り出してくる。
「ミウラさん、オネガイシマス」
紺色のジャケットを着こなしたこの紳士は、
カルカッタ柔道クラブの会長さんであった。
ムスタク・アーメイドは背筋をピンと伸ばして一礼をする。
「センセー、オネガイシマス。ワタシ、モット、ツヨクナリタイ、デス」
「ちょっと待った・・・」
さっきまで一介の旅行者だった私が何の弾みで「センセー」呼ばれるんだろう。
「ジャパニコーチプリーズ」
私の手を握った子供たちの言葉をきっかけに、
また「ジャパニ」コールが起こりそうになる。両手で必死に制した。
しかし制して静かになると今度は私が返事をする番であった。