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アチャー柔道
第17回「神様の住む帯」

アチャー柔道

アチャー柔道・神様の住む帯

一本の帯     

たこが海に溺れる 

インドの病    

ドゥルガ・プージャ

 


一本の帯


「神様の住む帯を僕は持っている」
 いつもクラブで自慢している生徒がいる。その帯を締めてるときは、一度も負けたことがないという。
 ある日、この生徒から帯を見せるから家に来い、と招待された。神様の住む帯といってもおよそ見当はつく。多分、例によってシヴァ神などが艶やかに刺繍されているのだろう。しかし、ものが柔道の帯となれば私も一応どんなものかは見てみたい気もする。
 30分後、稽古を終えた私たちはリキシャ(人力車)に揺られていた。帯の引き締まった黒と極彩色のシヴァ神のコントラスト、刺繍自体の出来はどんな風だろうとか、いろいろ想像を逞しくしているところで、リキシャが急ブレーキをかけた。
「何事だ?」
「旦那、すいません。この先、リキシャは進入禁止なんで」
「は?」
 私は面食らった。何が進入禁止だ。道端には野良牛や乞食昼の日中から堂々と寝転がっているではないか。今更リキシャ一台止めたところで何の意味があるのだろう。何事につけ、いい加減なインド人がよくそんな規制を守るものだ。
「旦那、ところが違うんですわ」
 リキシャマンが反論してきた。規制があるからこそ、混雑はするが朝夕何とか目的地に着くことが出来るのであって、この上リキシャが好き勝手に走り回っていた日には、カルカッタの道路は完全に機能しなくなってしまう。つまり交通規制を守るのは彼らの死活問題なのである。
 生徒の家に着いた。早速水が出てくる。
「ストマック、フル(腹は一杯だ)」
 インド式のもてなしにつき合っていたらすぐに1時間は潰れてしまう。私は早く帯を見たかった。もてなしを中断され生徒は多少不満げであったが、しかし彼とて帯を見せるために私をここへ連れてきたのだ。
「シアイの時にしか出さないんだけど、センセーはスペシャルゲストだからしょうがないか」
 本当は早く見せたいくせに、やたら勿体を付けてくる。
「それは光栄だ。早く見せてくれ」
 彼は部屋の隅に置かれたブリキ製の金庫から白い布にくるんだ一本の帯をうやうやしく取り出してきた。
「神様の住む帯です」
「どれどれ」
 包みを開こうとする私を彼は厳しく制した。
「センセー、もっと丁寧に扱ってよ」
 分かった!悪かった!生徒に手を合わせて今度は爆発物でも取り扱うような慎重さで包みを拡げていった。このパフォーマンスには彼もご満悦のようだ。やがて出てきた帯の刺繍を見て、私の体には電流が走った。
(ふ、船山先生!)
 帯にはオレンジ色の刺繍で「贈、船山」と記されている。
 船山先生は黒帯の昇段試験に合格した塾生には、必ず「贈、船山」の刺繍が入った黒帯を贈っていた。この帯は紛れもなくその内の一本だ。
「センセー、どうした?」
 私の顔色が変わったのを心配して、生徒が尋ねた。
「この帯、どこで手に入れた?」
「2年前、日本に行ったときに」
 彼の話をたどっていくうちに、帯は私の2年先輩の吉本さんという人のものだと分かった。中央競馬会に勤める彼は、道場に熱心に通ってくるインド人の生徒が黒帯に昇段したばかりだと聞き、この帯をプレゼントしたのである。鎮西高校の正門での船山先生とので会い、厳しいながらも楽しかった船山塾、地獄耳のお文さんやよかよかの菊池さん、様々な思い出が胸に蘇ってきた。そして卒業を間近に控え、レスリングの転向問題で気まずい別れをしなければならなかった。その船山先生と、人口9億とも、10億とも言われるこのインドの地で、再び巡り会うことが出来ようとは……。今も先生は毎朝、熊本駅裏手の花岡山をランニングされているのだろうか。
 帯に施された「贈、船山」の刺繍の謂れを説明すると、生徒は暫く無言で何かを考えている様子だったが、やがてポツリと言った。
「やっぱり、この帯には神様が住んでいたんだ。神様がセンセーを連れてきたんだ。」


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たこが海に溺れる


 あっと言う間の2ヶ月間だった。インド滞在もあと数日というところで、カルカッタ柔道クラブのメンバーは私のためにお別れパーティーを開いてくれた。道場が宴席、そこには酒もカラオケもない。しかし、インド人はチャイとお菓子と持ち寄りの楽器で5〜6時間は平気で盛り上がれる。めかし込んだ男女が民族舞踊からブレイクダンスへと拡がっていくと、私も一応芸人の卵として黙っているわけにはいかない。郷里鹿児島のオハラ節を」披露すると、これがインド人たちに大うけして道場中「アーオハラ、オハラ」の大合唱となった。
 部員たちはお小遣いを出し合ってガネーシャ(象の顔をした吉祥の神様)の置物を記念にプレゼントしてくれた。
「センセー、11月のナショナルゲーム、カム、カム」
 そう言われても日本に帰ると、また由利徹師匠の付き人、「メイビー(多分ね)」と曖昧に答えるしかなかった。
 パーティーが終わった後、私はこっそりとルブラジを呼び出し、ルンギ(腰布)をプレゼントした。
「短い間だったが世話になったな」
 ルブラジは外国人からプレゼントをもらった召使いは、この広いインドの中でもワタシ一人だろうと感激し、このルンギは祭りや結婚式などの特別の日にだけ使うと言っていた。
 感傷を胸に成田空港に降り立ったその日に、私は悲しいニュースに接しなければならなかった。
「たこ、海に溺れる」
 余りにも突然の出来事だった。兄弟子のたこ八郎さんの急死。酒を飲んで海に入り、波にさらわれたらしい。プロボクサー時代の愛称が「河童の清作」、芸名が「たこ八郎」そして死んだのが海……、つくづく水に縁のある人だった。「笑っていいとも」などのTV番組でようやく人気が出始めた頃なのに……。新宿のアパートで行われた葬儀、芸能人が次から次にご焼香にくる中、由利師匠は「俺より先に死んで、あの馬鹿タレが……」と寂しそうに呟いた。私はその後ろの方で、お茶漬け海苔をつまみに焼酎を飲んでいたたこ先輩の顔を必死に思い出そうとしていた。


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インドの病


 舞台公演が間近に迫ってきているというのに、どうも体調が芳しくない。そもそも食欲が湧かないくせに、トイレにしゃがみ込む回数はやたらに多くなった。バナナみたいな顔色は黄色人種だからしょうがないとしても、歌舞伎町のネオンを見ても心ときめかなくなったのは、私にしては尋常ではない。
 慌てて近所の病院に駆け込んでみると、
「肝炎です!」
 診察してもらった医者からきっぱりと言われた。肝炎と言えばインド病の代名詞ではないか。
「でも、もう帰ってきているのに……」
 すがるように弁明する私に対して医者は素っ気なかった。
「でも行ってたんでしょ。インドに……」
 斯くして私はその日の内に隔離病棟に入院、この病気に特効薬はなく、ただひたすら静養するしかないらしい。
 3日後、退屈しきっている私の枕元に、カルカッタ柔道クラブから一通の手紙が届けられた。そこには細かいアルファベットがぎっしりと書き込まれている。毎朝点滴を取り替えにくるナイスバディーの看護婦さん頼んで英和辞典を調達し、翻訳を始める。一つの単語を調べるのにも脂汗を流しながら悪戦苦闘、その姿が余りにも苦しげだったのだろうか、看護婦さんからは「ちゃんと安静にしてなくちゃ辞書を取り上げますよ」と叱られた。
 しかしこの苦行の甲斐あって、どうやら手紙の趣旨は分かってきた。要は11月にナショナルゲームがあるから、またコーチに来てくれと言うことなのだ。計ったようなタイミングである。この入院のせいで9月、10月の公園は全てキャンセルしたところなのだ。
(どうしよう……)
 こうして迷っているところを見ると、どうやら私もインド病にかかっているのかもしれない。肝炎のことではない。インドに行き、そのウィルスに感染すると必ずインドに舞い戻ってしまう習慣性のある病で、悪性のものになると日本の社会に復帰できなくなるとか。現在様々な研究が進められているが未だに原因は解明されておらず、厚生省の調査によると、感染者は年間でかなりの数に上っているらしい。


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ドゥルガ・プージャ


「アイス、ワンモア、プリーズ」
 立て続けに氷を注文する私にスチュワーデスのお姉さんは呆れ顔だ。
(今度ばかりは意地でもナポレオンを渡すものか!)
 そう決心した私はタイからカルカッタまでの空路、ずっとブランデーのオン・ザ・ロックを飲み続けているのである。いくらライフル銃を持ってしても胃袋の中の酒は取り上げられまい。
 しかし、インドの税関はそう甘いものではなかった。大会のコーチとして渡印するからには指導に関しての勉強もしなくてはと思い、神田の古本屋街でどっさりと柔道の指導書を仕入れてきたのだが、犬がものの匂いを嗅ぐように係官は早速興味を示してくる。
「これカラテ?」
「柔道ですよ」
「オー、ジュードーね。実は私はブルース・リーのファンなんだ」
……どうやら柔道と空手の区別が付いていない。
「記念に一冊ギブ、ミー」
……そのくせ欲しがるのはちゃんと欲しがる。抵抗してもしようがないから一冊渡すと、自分もこれでブルース・リーみたいに強くなると張り切っている。是非とも精進してほしいものである。
 手続きを済ませ表に出ると、またたく間に客引きが寄ってきたが、今回はラケシュ君がバイクで迎えに来てくれているから安心だ。その横にはムスタクもいる。彼もラケシュ君がバイクを購入したばかりなので、二人でツーリングをかねて迎えに来てくれたらしい。
「センセー、オカエリナサイ」
 どこで覚えてきたのか、たどたどしい日本語で私を出迎える二人がやたら懐かしく思えてならなかった。
 さて、翌日張り切って道場に行くが生徒がほとんど来ない。大会前だからと人を呼んでおいて随分失礼な奴らだ。が、これにはちゃんとした理由があったのだ。ドゥルガ・プージャである。
 これは五穀豊穣を祈るヒンズー教の祭りで、シヴァ神の妃・ドゥルガ女神の像を泥で造って飾りたて、その立派さを町内で競う。ヒンズー教徒の生徒はこの準備に大わらわ、仕事も稽古も放ったらかしなので、ちょいとばかり寂しそうにしているイスラム教徒のムスタクと一緒に近くの制作現場を冷やかしに行った。私が初めて目にするドゥルガは目が三つに手が八本、全身派手に飾り付け、ライオンと水牛を踏んづけているその姿は、どう見ても女神というよりは悪役の王妃だ。
 ドゥルガ・プーシャは十日間続く。色とりどりのセロハンを貼った電球が町中に取り付けられ、爆竹の音が至る所に鳴り響けば祭りの開演。女や子供もこの時ばかりは頭にココナッツ油を塗りつけ、よそ行きの服を着て町中に溢れ出す。普段は裸足の物乞いの子供たちも、ブカブカの靴を履いて金をせびりにきた。渋めのラケシュ君も今日はお祭ということで金を出している。もし、この時出し渋ると、子供たちから爆竹を投げつけられるので要注意!
 随分と賑やかな祭りではあるが、部屋に戻ると全くの別世界が待っている。ラケシュ君は明かりを消し、ろうそくの光だけで神様にお祈りをする。外を見ると、どの家の窓もろうそくの明かりだけがゆらゆらと揺れている。私がインドで初めて体験する静寂の時であった。
 祭りの最終日、夜、神輿に乗った全てのドゥルガ像が町中を練り歩き、最後はフグリー川(ガンジス川の支流)に流される。ムスタクと二人で出かけハウラー橋の欄干に頬杖をつき下を見下ろせば、河岸は視界の届く限り人で埋め尽くされている。その中を次から次にドゥルガ像が流されていく。と同時にワーとものすごい歓声が上がった。イスラム教徒のムスタクがこの光景をどんな気持ちで眺めているのだろうか。
 十日間の乱痴気騒ぎと敬虔な祈りを受けた泥のドゥルガ像は、ゆっくりゆっくりと川を流れていく。そして彼女もやがて水に溶けインドの大地に還っていくのだろうか。

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