見付は、遠江の国府として古くより栄えた町である。当初国府は中泉(現磐田駅南、中泉代官所跡地辺り)に作られたが、平安時代に入って、見付(現大見寺周辺)に移転した。その後鎌倉時代には守護所がおかれ、遠江国の政治経済文化の中心を為した。祇園信仰が東海道、山陽道を中心に東西に伝搬したのはこの頃であった。当時、東国と西国の中心に位置する東海道筋で、大之浦(現今之浦辺り)という入江を南に控えた港町でもあり、立地条件に恵まれた交通の要所見付は、一の谷遺跡(日本国内最大規模の中世墳墓群)にも裏付けられる大規模な集落をなしていた。(十六夜日記にも見られるように鎌倉時代さびれた一時期もあった。)
祭はその時代の都市機能形成に重要な役割を果たしてきた。京都祇園会の山鉾巡行では、道の両側に出来た町屋からなる共同体で山鉾を出すほか、町屋の売買や町屋人の選定などの自治を行う。この様に祭の運営当たって住民は自主的組織を形成するようになった。見付においても同様に、東西の町から出す舞車の運営に、自治組織が形成され、盛大な祇園会が行われていた。その成立は南北朝の頃にまで遡ることが出来る。
室町時代の見付は既に自治が行われていた。町の運営で最も重要なことは祭礼の執行である。見付では、淡海国玉神社神主の大久保氏がその要となっていた。謡曲「舞車」は、この頃の作品である。
やがて戦国の世を迎え、見付を制圧し代官を設置しようとした今川義元は、天文10年(1541年)、代官を置かない代わりに、年貢百貫文のところをもう五十貫文余分に納めるという見付府町人、百姓の申し出を受け入れ、見付に自治権を正式に認めた。代官の停止、年貢の請負によって自らの町を治め、生活を守ることを見付の町人、百姓の手によって成し得たのである。 このような自治権を獲得できたのは見付町人、百姓衆に自治と共同体意識の高さによるものである。町の自治権が正式に認められたのは、京都、堺を除いて、地方の都市では珍しいことであった。
見付は、その後江戸時代に入り、東海道有数規模の宿場町として繁栄していったのである。
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