寝技の世界■第9回 三浦守<後編>

ゴングKAKUTOUGI 7月号


『インド人は寝技を嫌がるんです。でも徹底的に練習して結果を出しました』

かつてコメディアンの由利徹の付人を務め、その後インドで足掛け14年に渡り柔道を指導している、それが三浦守氏だ。もちろん、鹿児島実業、鎮西高校という名門校で鍛えられた寝技の実力は本物。現在日本とインドの生活の割合は半々だという三浦氏は、今まで登場してきた人物とはやや趣を変える。今回は特に、氏の柔道以外の波乱万丈の人生も味わっていただけたらと思う。
<取材・文/藁谷浩一>


 85年6月、インドに発った。「暑い時期で蚊が多いから、長ズボンと長袖で虫除けになるし,畳めば枕になるから」という理由で日本から持ちこんだ柔道衣が、三浦氏の人生の転機となる出会いを呼ぶ。リュックサックに御守り代りの日の丸を縫い付け、その上に柔道衣を乗せてカルカッタの町を歩いていると、突然声を掛けられた。
 カルカッタ柔道クラブが近くにあるから来ないか、という誘いだった。その頃、道中の様々なトラブルでインド人に不信感を抱いていたが、男の執拗な誘いもあり、翌日の朝に宿まで迎えに来てくれと頼んだ。
「本当に次の日の朝、迎えに来てくれて、初めてインド人に騙されなかったと感動しましたよ(笑)」
 翌日、カルカッタ柔道クラブでは、全国大会に向けてカルカッタ地区予選が行われていた。お世辞にも、レベルは高いとは言えない。柔道の基本である摺り足や体捌きがほとんど出来ておらず、ドタバタと動いては、かかりもしない大技を狙っている。レスリングといった方が近いかもしれない。 大会も終わり、三浦氏が帰ろうとしたところ、周りのインド人が騒ぎ出す。”ジャパニーズ、試合をやれ!”というのだ。すでに現役を離れて10年経っており、「日本人が負けたら恥」という気持ちから試合を断っても、騒ぎは大きくなるばかり.仕方なく、覚悟を決めて大男と戦い、背負い投げを決めて勝利した。
「勝ったけど、インド人が僕を押さえつけて帰してくれないんですよ。寄ってきてひざまづいて、足の甲に触れて拝み出したんです。そして拝み終わった後に”あなたは今日からチャンピオンだ"って」
 試合で勝った相手は、インドの2年連続のチャンピオンだったのだ。そして、インドで柔道のコーチをしていってくれとせがまれる。
「やるのと教えるのは違うからねぇ。だけどインドを回ってみたかったから条件を出して、俺も旅行に来たから一ヶ所に居るのは嫌だ、いろんなところを回りたいと。それでいろんなところを指導してきたんですよ。
 ただ日本に帰ってきて、師匠(由利徹)が最初怒っちゃって、”お前、俺の弟子なんだろ!”というから、”いま私先生なんですけど”と言ったら”何考えてんだ!”と(笑)。でも結局、”しょうがねえな、インドも芸のうちだから行ってこい”と言ってくれましたよ」
 文章ではあまり伝わらないだろうが、さすが芸人を目指していただけあって、この辺の話術の巧みさには、本当に話に引き込まれるものがある。
 こんな出来事もあった。87年、パンジャーブ州体会で柔道のデモンストレーションをやることになり、それまで各地でデモンストレーションを経験している三浦氏は、今回は趣向を変え、洒落を交えようと試みた。
 4人揃えた大男と試合形式で戦い、次々に投げ飛ばした後、最後に小柄な女の子一人を迎えた。12〜13歳だろうか、自信なさそうに背負い投げをかける彼女の身体の動きに合わせて、自ら弧を描いて三浦氏は投げられた。「イッポン!」
 しばらく静寂が続いた後、やがてどよめきがうねりのように会場全体を包み込んで行った。
「ショーでしょう。なのに、インド人は本当に小さな女の子に投げられたと思うんですよ。”なんでお前は負けたんだ””あの女の子はオリンピックにいけるか"とかみんなに聞かれて(笑)。新聞にデカデカと、”ジャパニーズが小さな女の子に負けた”と書かれましたよ」
 とんだ計算違いはあったものの、指導者としての評価は落ちることがなかった。パンジャーブ州チームのコーチを頼まれ、全国大会優勝に導いた。その後も数々のチームを優勝させ、マレーシア、ミャンマー、カンボジア、タイにも渡った。アジア大会やオリンピックにも三浦氏はインドチームを率いていった。

子供達との葛藤の末得た輝かしい結果の数々

 輝かしい結果を出して行った、三浦氏の指導の秘訣は何だろう。
「子供達との葛藤ですよ。反復練習は嫌がるし。でも僕は変な話、インド人よりインドを回っていますから、インド人よりインドの柔道を見ているんですよ。当時は立ち技で投げてもなかなか一本を取らなかった。それは、レフェリーが柔道を知らないから。でも寝技は30秒という時間でしょう。だから僕は全国大会で勝ちたいなら、寝技が一番良いと思ったんです。
 ただ、インド人は寝技を嫌がるんですよ。僕は真面目に練習しないと”ガンガするぞ”って言う。すると、インド人はすごく怖がるんです。絞め技のことをガンガと言うんです。ガンガはガンジス川のことで、ガンジス川は死体を流すでしょう。絞め技というのは死に至る技だから、彼らは死ぬと思っているんですよ。でも寝技を徹底的に稽古して、全国大会で優勝しましたからね。結果が出れば彼らはわかるんですよ。
 私は日本のレベルがわかるじゃないですか。幸いにして学校が強かったから、高校、大学のトップレベルがわかるし全日本のレベルもわかる。その辺は非常に感謝しますよね。インドで指導する自身になります」
 彼らを導く上で三浦氏が日本人であることは、大きな要素であった。
「インド人がインド人を教える場合、色んな問題点があるわけですよ。法律ではカースト制度は廃止しているけど、やはり生活の中にハッキリありますからね。私にはカーストがないから、教え子が集まるんですよ。ジャパニーズは平等に教えてくれる。これは直ぐには分りませんが、長く付き合っている間にわかってくる」

柔道場がメインの友好会館 インドに造るのが将来の夢

 現在、三浦氏はパンジャーブ州アムリトサルに4年前から部屋を借り、同地を中心に柔道を指導している。
「将来、インドに柔道場をメインにした友好会館を作りたいんですよ。そういう場はどこにもないので、アムリトサルに作りたい。国境があって、そこから文化圏が分れていく街なんです。あと、地域的に豊かな州だというのもあります。食べるのがやっとでしたら、スポーツなんかできませんよね」
 日本とインドの生活の割合は半々だというが、日本滞在中はシタールというインド音楽の演奏会を学校の視聴授業で行うべく、学校や教育委員会に企画を持ち込む。それは日本人にも子供の頃からインドを身近に感じてほしい、という気持ちからだ。また、東南アジアからの民芸品の販売にも携わっている。
 インドに関わってすでに14年。日本とは全く文化が異なるインドに長いことハマっているのは、日本のせせこましいところが嫌いなんだろうなぁ…と勝手に想像し、「インドにずっと住みたいとは思わないのですか?」と三浦氏に聞いてみると…。
「よく聞かれるんですけど、逆なんです。日本が好きだから、友好会館をつくりたいんです。僕はインドに行って、日本の素晴らしいところ、悪いところを知りましたよ。これは日本にいたらわからないです。
 ただ、インドはある意味で日本より恵まれている。大会で優勝してランクが上がると、生活が楽になる。鼻の先にはニンジンがぶら下がっていますからね。私に関して言えば、柔道で飯を食う気はない。飯を食おうと思えば、やれないことはないかもしれないけれど、私は柔道はアマチュアだからね。あくまでも趣味。インドのコーチは国からお金をもらっているプロで、僕はもらっていない。ただコーチとしてやるからには絶対に負けたくないからね。」
 柔道をやることでその競技内の世界だけでなく、日本という国、国際社会に目が向けられていく…。格闘技雑誌の記者として、読者にこのエネルギッシュな40歳から何か感じとってもらえれば、三浦氏を人選した甲斐があったと思う。
(終わり)


日印友好協会ホームページ