目次

  1. 農家に育った少年時代
  2. 希望を胸に台湾へ
  3. 鳳山農場
  4. 陸軍入隊
  5. 凍土満州
  6. バシー海峡春景色
  7. 捕虜生活
  8. 米兵との友情
  9. 復員
  10. 帰郷、結婚、そして今
  11. 著者略歴


6、 バシー海峡春景色

日本が戦況不利になり始めた頃、ソ連が一方的にソ満不可侵条約を破棄して戦車を先頭に侵入して来ました。相手が戦車では成す術もなく、日本兵は満鉄を利用して南下し、満州開拓民は右往左往。当分の食料を持ち、一部の人々は満州鉄道を利用された様でしたが、大多数の方々は、鍋、薬、缶を両手に持ち、決死の行軍だったとか。昼夜續く行進で、特に夜間など、乳飲み子に泣かせまいと口と鼻を圧迫して息が出来ず窒息して他界した子供さんが何人も有ったとか。遠い満州まで、お国の為と言われて来たのに、中には故郷を売り払って満州開拓団員として渡満した人など、政府が住居を確保して上げたでしょうか?

昼も夜も我ら兵卒は無蓋貨車で、雨が降れば濡れ、雪が降れば積もる車内でした。 何時間か過ぎ、列車が止まった所は朝鮮半島南端の様子でした。三度の食事とて定まって居る訳もなく、腹が減れば乾パンを食べ、水を飲む。之が常識だったのでした。

噂によれば我々は、規格船に乗りバシイ海峡を越えヒリピン迄行くのだとか。我ら兵卒の知る由もなく、放牧された羊の様に、南十字星を眺め乍ら、センチメンタルに耽る自分でした。

白い光の尾を残して消え行く流星も、軈(やが)て我が身と心に浮かぶのでした。静かに流れ行く船は、瀬戸内海を過ぎた頃、門司を過ぎ、大海原に出た船はお手玉の様に玩(もてあそ)ばれるのでした。 揺られ流され着いた所は数年前まで住んで居た台湾高雄港でした。住み慣れた高雄。懐かしさを一叺感じるのでした。

岸壁の倉庫は爆撃で焼け落ち、積んで有った砂糖がアメリカの爆撃に因って燃焼して、薄茶色の泥のようになって居り、倉庫其の物は焼けて有りませんでした。嫌な感傷に耽っていた其の時、目の前に一機の戦闘機が墜落して、港の中に沈んで行きました。翼には赤い日の丸が付いて居ました。我々は只「アッ!」と言っただけで意気消沈。何時の間にか集結した輸送船は六隻とか。一個中隊の戦車、自動車、重火器とか、戦闘機具等々満載との事でした。

之から此の船団はバシイ海峡を越えてフィリピン・ルソン島のマニラ港に行くのだとか。船の揺れに気付いた時は、バシイ海峡を南に南に、『バシイ海峡春景色』ではないが、時折、秋刀魚ほどの大きさの飛魚が、左右に長い羽根を踊らして沈み行く様が愛おしくも思えるのでした。 此の船団を援護して呉れるであろう護衛艦一隻もなく、敵のスパイにとって最高の餌食になるではないかとの予感がしたが、一兵卒では発言する資格もなく、黙秘の道を行くしかありませんでした。

バシイ海峡でドスンと重い衝撃を二度三度感じた事がありましたが、何故と思うだけでした。我々の輸送船は鉄板一枚外は海。一発食らえば爆下沈とうまい異名が出来たものだと思いました。

船の揺れが止まった時、マニラ港に入港して居りましたが、マストと思(おぼ)しき物体が三本程立って居り、岸壁に着けない状態でした。此の様な状況でも、敵の戦闘機が我々に機上掃射を始めるではないかと、此の時こそ身の置き所が無いと言うのか、神頼みの心境でした。

マニラ港に着いたのは六隻中三隻のみ。港の中には待つ期間中も敵の戦闘機が飛来して、身の置き所がないとはこの事。後の三隻は遂に来ず、バシー海峡の藻屑(もくず)となったのか。主体の車や戦車の影はなく、我々兵員だけは、銃剣は全員身に付けて上陸完了しました。彼の時の数回の謎の音は、友船がバシイ海峡で敵の潜水艦による魚雷攻撃に依り、海の藻屑(もくず)の様に沈められたのだろうか。胸に迫る感じで一杯です。