目次

  1. 農家に育った少年時代
  2. 希望を胸に台湾へ
  3. 鳳山農場
  4. 陸軍入隊
  5. 凍土満州
  6. バシー海峡春景色
  7. 捕虜生活
  8. 米兵との友情
  9. 復員
  10. 帰郷、結婚、そして今
  11. 著者略歴


7、 捕虜生活

重火器はなく、兵卒だけでは言葉もわからず、解放された狼の群れの様に市民からは遠ざかり、生憎の雨の中、高床式の民家を借りて休んで居たら、ハイエナの様に付き纏う敵機の銃撃で燃え上がり、高床から飛び降りて防空壕に飛び込んだら、其処は民家の地下室だったので、「失礼しました」と外に出て、方向音痴の我々は羅針盤の振り向く儘に、北へ北へと進路を取りました。

ルソン島の昼なお暗いジャングルもアメリカ枯葉作戦の前に成す術もなく、傾斜地に穴を掘り、シートを垂らし、身を隠すのでした。 ハイエナを気にしつつ前進して居ると、遥か前方に林が見えるではありませんか。藁をも掴む思いで林の中に入る事が出来、『仙山(せんざん)甲(こう)』ではありませんが、お互い自分だけが入る穴掘りが始まりました。此の谷間に来る途中、長さ壱米も有りそうな迫撃砲の不発弾が転がって居り、不気味な風気が横切るのでした。

其の時、台湾の公民兵が大きな声で彼方に一匹、そちらに一匹と、今迄日本軍に所属して居ったが日本軍戦況不利となり寝返りしたなと直感したのは私だけでした。数年前まで台湾に住んで居り、直接彼らと話をした経験から、追い打ちと言うか泣きっ面に蜂。空には観測機が飛来し、見付かれば雨(あめ)霰(あられ)の砲弾の見舞いを喰うのが関の山、飛び去るのを待つしか有りませんでした。

彼の日から何日か過ぎた日に、亦観測機が来ましたが、この時の放送は違っていました。それは、 「日本の兵隊さん、戦争は終わりましたので、山から下りて武装解除されてください」と。しかし、誰もこの言葉を信ずる人はおりませんでした。

一日過ぎて、又同じ言葉で放送して来ました。何故か空気が静の様に感じました。戦友達も指定された所に向かいました。案の定、指定された所に降りて行ったたところ、背の高いアメリカ人が三人、何も持たず我らの来るのを待って居た様子で、我らの持っていた歩兵銃と剣は取り揚げられました。

静かに武装解除が終わり、我らを迎えに来て呉れたのは、長さ五、六メートルもあろうと思われるトレーラーではないですか。当時、日本の貨車と言えば、オート三輪車程度の貨車しか有りませんでした。此のトレイラーを見て、戦力の差が月と鼈(すっぽん)だから、我に勝算なしが直感でした。敵を知り己を知ってこそ、我に勝ち目有りとか、国家の指導者は考慮して欲しいのです。何時も苦しみ泣くのは国民であることを!

我々を送り届けた所は、マニラ郊外の広い野原で、大きな天幕がいくつも張ってあり、其の中に折り畳み式一人ベッドが何百となく置いて有りました。明日から我らPW(prisoner of war・捕虜)の生活の一歩が始まるのでした。鬼が出るか蛇が出るか、後日のお楽しみ。

我らPWの供与は朝晩茶碗一杯の飯だけ、それも、ドラム缶の中から杓文字(しゃもじ)で掬(すく)って呉れるのでした。副食品等一品もなく、貧血で立ち眩みする人が多く出て、勝手場にポテトを盗りに行き、見付かって掴まり、首から白紙に《私はお勝手に盗みに入り、罰で一日絶食です》と掛けられました。しかし、何故か兵卒の中には一人も居りませんでした。御互い空腹も限界を超えており、同情の余地あれど我慢の限界を越えて居りました。

懇談会が終わったころには、彼方此方から鼾の競演会が始まり、白けた一時でした。そんな時、紙撚(こより)でも鼻の中に入れたい悪戯心が湧き出るのを如何ともし難く、流れ行く時間を送るのでした。