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アチャー柔道・日本編

第11回「東京潜伏」


アチャー柔道・東京潜伏

    航海?先に立たず

    四畳半ブルース

    入学×・・入門



航海?先に立たず

 もう1週間、海しか見ていない。今、私は南太平洋のど真ん中にいる。耳には小型漁船のエンジン音がけたたましく鳴り響いている。このマグロ漁船に乗り込んで「我は海の子白波の〜」と調子よく鼻歌でも歌えていたのは錦江湾を出航して最初の1日だけ、外用に出ると船が大揺れし、たちまち嘔吐した。引き返そうにももう遅い。陸とは違って途中下車というわけにはいかない。船はその後も波の荒い大海原を進み続け、私は一時も立っていることが出来ない。胃液も出尽くし吐くものはもう内蔵だけ、こんな状態がいつまでも続くのであれば死んだ方がましだと思った。しかし周りの乗組員達は、畳一枚ほどの簡易ベッドに横たわり、漫画や週刊誌を読みふけったり、航海日誌を付けたりと、至って呑気なものだ。

 船の揺れにも慣れ、苦しみからやっと解放されたのがつい3日前、それはいいが、今度は退屈で仕方がない。当然と言えば当然だが四方を見渡しても海ばかり、時折船と並んでジャンプする飛び魚の群を眺めるのが今の私にとっては唯一の楽しみだ。

「で、一体お前はそこで何をしているんだ?」ですか?そうか、話が急に飛びすぎてしまったようで・・・

 

 レスリングに転向すれば、2年間お世話になった船山先生に対して申し訳が立たない。いたずらに時間は過ぎていった。そろそろ大学に願書を出す締め切りが迫ってきたある日、船山先生から応接間に呼び出された。

「ヌシは卒業だけはちゃんとせないかんぞ」

 船山先生の言う意味が最初はよくわからなかった。

「ヌシを預かったとき、鹿児島実業の中原先生と約束したけん、卒業だけはしろ。後はヌシが自分で決めることばい」

 卒業さえすれば自分の好きなようにしてもいい、・・・この言葉に一瞬私は安堵した。しかしそれも束の間のこと、レスリングか柔道か、自分で選択をすることの責任が重く体にのしかかってきた、やはり決心がつかない。

 私はこの重圧から逃れる唯一の方法を思いついた。それはどちらからも推薦されていない大学を受験することだった。が、時は既に11月下旬、そのためには勉強をしなければならないと気づいたのが12月、正月をだらだら過ごした私は結局どこの大学も受験することはなく卒業証書を手にしていた。

 こうして私の花の浪人生活が始まった。

 しかし、今更学校の延長みたいな予備校に行くのもまっぴら御免だ。どうせ受験も1年後なのだから、ここは一つ1年間の軍資金を作っておこう、早速次の日からバイト探しに取りかかり、選んだのが「外国に行ける」というプレミアムがついたマグロ漁船乗組員の仕事だったのだ。台湾、グアム経由で南太平洋のカロリン諸島へ約2ヶ月の航海、それらは何という魅惑に満ちた言葉であったろう。

 

 しかし、現実は先ほどお話ししたとおり今のところ退屈との戦いでしかない。誰かしら話し相手になってくれる人はいないかと思うが概してみんな無口で暗くて恐い。一人黒いテンガロンハットをかぶりギターを弾いている風変わりな奴も居たが、気持ち悪いのでこちらから話しかけることはなかった。夜になると幻想的なくらいに近くに感じるお星様に「お休みなさい」の挨拶をし、波の音を子守歌に眠りにつくだけである。

 日本を発って10日後、いよいよ漁場に到着!漁が始まると退屈などとは言ってられない。夜明けと同時に縄から垂れ下がったワイヤーの先に冷凍鯖を丸ごと1匹ずつ引っかけ(いわゆるハエ縄漁だ)、午前中いっぱいかけてその縄を海に投げ込んでいく。午後には最初に投げ込んだブイの所に戻り、縄をローラーで巻き取りつつ、かかった魚を手鉤で引っかけ針を外す。取り込む魚の数は1回の漁で50匹近く、その1匹1匹の内蔵を掻き出し、氷を詰め込んで保冷室に入れるまでが仕事の一部始終だ。本マグロの他、キハダ、メバチ、時には2mいじょうもあるカジキなどもかかってくる。

 海のギャングと言われるシャチが出没すると漁はあがったりだ。引き上げたマグロは見事に骨だけになっていて、空しい気持ちで一日を終える。

 ある日、このシャチが針にかかり船板に上がった、3メートル近くはある大物はばたばたと船上で暴れる。

(憎らしい奴だ!)

 私は手に持ったナイフを思い切り背中に突き刺した。しかしナイフは分厚い皮と脂肪に跳ね返されて刺さりはしない。

「馬鹿!危ないぞ」

 私に注意したベテランの船員らが3人がかりで、シャチの口から顎にかけて大鉈で切り裂いていく。こうしないと水の中でなくても危険なのだそうで、他の船員の話によると腕を食いちぎられた人もいるとか。更に内蔵を掻き出すと哺乳類独特の臭みが我々の鼻をつんざいた。記念にみんなでシャチの歯を1本ずつ分け合い、海に捨てた。これでまだ食えるのなら役に立つのだが我々にとっては百害あって一利なしだ。

 さて、30日間に及ぶ漁もやっと終わった。いつもより大漁だったということで船長も上機嫌。しかしそのおかげで漁は早く終わり、台湾、グアムには立ち寄ることなく、船はそのまま日本に向かっている。外国に行けるのを楽しみにしていた私にとっては大きな誤算であったが、しかし無事に日本に帰れることが何よりだと思う。

 私もこの頃になると幾人かの人とは多少の話をするようになっていた。ある人から教わった珍味が忘れられない。マグロの心臓を乾燥させ七味唐辛子にまぶして喰うのである。(美味しい!)この時私は自分もいっぱしの海の男になれたような気がしたものだ。

 また王選手が756号ホームランを打ち世界新記録を樹立したニュースをFAX新聞で受け取ったのもこの船上であった。偉大なる記録に拍手を送っていると、やがて海の色が灰色に変わってきた。

 「もう日本は近いな」

 一人の船員が呟いた。

 


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四畳半ブルース

 マグロ漁船を降り陸に上がった私はやはり柔道に戻ろうと心に決めていた。

 太平洋のど真ん中で真っ青な海を何日も見ていると心がすごくシンプルになる。本当に自分がやりたいのはどっちだと考えたとき、やはり長年体に馴染んだ柔道衣を脱ぐ気にはなれなかった。

 陸に上がって1ヶ月、そろそろ受験勉強を始めなければならない。毎日そう思い続けているうちに季節はいつの間にか夏から秋に移り変わっていた。

 「このままではいけない!」

 鹿児島実業高校時代にお世話になった喜久先輩がいる拓殖大学体育寮を訪ねたのは既に明治神宮の銀杏が黄色く色付き始めた頃。当時、政治家を目指し毎日、日本経済新聞を読んでいた懐かしの喜久さん、今は、経済新聞に加え文芸春秋を愛読雑誌にし、柔道部に在籍しながら政治研究会で大いに活躍していた。

 「何かあったらいつでもオイを訪ねてこい」

 2年前にもらった年賀状に書いてあった言葉を当てにし、かるかん饅頭一つを下げて丸の内線の茗荷谷駅を降りた。とにかく喜久さんの所を拠点に部屋を探して東京で生活するようになれば怠け者の私も勉強するようになるだろうという極めて他力本願的な発想であった。

 「三浦、どぎゃんしたか?」

 相変わらず太い眉毛を上下にピクピク動かしながら、喜久さんは突然田舎から訪ねてきた私を快く迎えてくれた。私は自分の状況を話し、部屋が見つかるまで何とかここに泊めてもらえないだろうかと相談した。

「部屋なんか見つけんでも、ここにずっと寝泊まりすればよか」

「でも、そういうわけには」

四畳半一間の部屋には喜久さんの他にもう一人加藤さんというルームメイトがいる。受験までの間ずっと、というのはいくら私でも気が引ける。

 「加藤、別にかまわんよな?」

 お地蔵さんが黒縁眼鏡をかけたような風貌の加藤さんは、はっきり言って老けている。2度離婚したと言っても10人中9人が信じると思う。

 「おう、そういうことなら大歓迎じゃ。三浦君、遠慮はいらんぞ」

 加藤さんは私が喜久さんの土産に持ってきたかるかん饅頭を頬張りながら豪快に笑った。

 寮での生活は私にとってはこの上もなく楽しいものだった。昼は喜久さん達と一緒にキャンパスに行き経済学部の講義を受講する。高校の授業とは明らかに違う自由な雰囲気がある。夜は寮の1年生が私の家庭教師にやってくる。加藤さんが少しでも現役に近い方がいいというので代わる代わる呼びにやるのだ。

 食事は朝夕、寮で食べることが出来た。喜久さんか加藤さんが私の分を部屋に運んできてくれるのだが、その分食べれない人が出てくるはずである。

 「50人もいるんだから誰かしら食べない奴が一人位はいる」

 加藤さんは呑気なことを言っているが、しかし食事が一人分足りないと言う騒ぎが何度か起こると、”寮の食事を部屋に持ち帰ること厳禁”との張り紙が張り出された。喜久さんも加藤さんもそんな張り紙は無視して相変わらず食事を運んできてくれた。妙なもので、それ以降食事が足りないという騒ぎは2度と起こらなかった。

 


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入学×・・・入門

 喜久さんが中学まで靴を履かなかった話は以前紹介したとおりだが、、この加藤さんは未だに靴を履かず、銀座であろうが赤坂であろうが常に愛用の下駄で闊歩する。

 寮で加藤伝説というのを聞いたことがある。ある時、赤坂のホテルに学生服姿に下駄で入ろうとしたらドアボーイに制された。

 「俺は水虫だから靴が履けないんだ。下駄で何故悪い。」

 大声でこう主張するものだからホテルのマネージャーが慌てて飛んできた。

 「お客様、私どものホテルでサンダルをご用意いたしますのでそれにお履き替え下さい。」

 「嫌だ、人の履いたやつは病気が移る」

 マネージャーは次の言葉を発することが出来なかったらしい。

 また、加藤さんは酒が強い。飲むのが好きなのである。アルバイトで臨時収入が入ると「今日は三浦君の合格の前祝いをしてやろう」と何やかんやと理由を付けてはあちこちの盛り場へ私を連れていく。そして飲むと赤地蔵になり説教を始める。

 「三浦君は大学で何を学ぶのか、自分のテーマをちゃんと持っているのかな」

 こういう謎かけの質問が出てくるとそろそろまずいのである。

 「いいか、そもそも大学で学ぶものが講義だけだと思うのは大きな間違いなんだ。大学に存在するという行為を通してそれぞれの宇宙観、歴史観、人生観を確立させなければならない。喜久なんぞはその辺のことがふにゃふにゃのくせに日本の政治を変えるなどと大風呂敷を敷いているが、先ず喜久自信が変わることが肝要なんだ」とか「いいか、麻雀はやめておいた方が賢明だ。あれは友達をなくす。しかし競馬で人生を学ぶことは出来る」とか。話がこの辺になってくると私もよく理解できないので適当に相槌を打つしかない。しかしその相槌もいい加減に打っていると説教の対象になるので注意が必要だ。

 そんな加藤さんとタクシーで寮まで帰るときが緊張の一瞬だ。寮の手前100メートルくらいまで来ると加藤さんの目はメーターに釘付けになる。そしてもう直ぐ門という所のちょっと手前でカチャッとメーターが上がると加藤さんは急に痙攣を起こす。

 「これが心臓によくないんだよ、三浦君」

 実際に胸を押さえて苦しそうな加藤さんは、タクシーの運転手にここまで走ってくれと頼んだ覚えはないからバックしろとわけの分からないことを言い出す。

 「だんなさん、そんなこと言われても、メーターは戻りませんぜ」

 「メーターのことを言っているんじゃない。とにかくばっくしたまえ」

 タクシーの運転手も加藤さんの剣幕に押され渋々バックする。しかしメーターが元に戻ろうはずはない。加藤さんは暫し沈黙した後、静かに言った。

 「負けてくれないだろうか・・・」

 鬼の霍乱、ある日この加藤さんが風邪で寝込んでしまった。が、実は行きつけのスナックの女を映画に誘ったが、にべなく断られショックを受けているというのが事の真相らしい。土方のバイトに穴を空けられないからと言うことで急遽私がピンチヒッターに立った。折しもクリスマス、銀座のデパートのショウウィンドウは華やかに飾り付けられ、街にはジングルベルが流れている。

 昼休み、私が物珍しそうに道行く人を眺めていると向こうでも私を眺めている男がいる。赤のオーバーに狐の襟巻、ぱっと見はまるでサンタクロースだ。人の顔をじろじろ見て失礼な奴だと思い見返していたらひょこひょこと短い足を動かし近づいてきた。見れば50過ぎのちんちくりんな親父ではないか。

 「兄ちゃん、いい体格しとるなぁ、何かスポーツやってたのか?」

 浪花節みたいなしゃがれ声だ。

 「ええ、一応柔道を」

 「そうか、柔道か・・・」

 更に親父は私を値踏みでもするかのように足のつま先から頭のてっぺんまで観察している。

 「よっしゃ、気に入った。兄ちゃん今から芸能人に会わせて上げる!ついておいで」

 「今からって、まだ仕事中ですから」

 「昼休みでボケーとしてたんだろ、直ぐ近所だから」

 5分後、私は日比谷の宝塚劇場の楽屋にいた。森光子、美空ひばり、北島三郎、有名な芸能人の名前が書かれた花束が所狭しと飾られている。

 「先生、面白いのを連れてきましたぞ」

 親父のしゃがれ声に、鏡の前で白い粉を顔に塗りたくっていた男が振り返った。(はて?どこかで見た顔だな。それにしてもやたら胸毛が濃い)そう思っている私を見て男はいきなり立ち上がると、股をぱくりと開いた。

 「オシャマンベ」

 

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