寝技の世界■第8回 三浦守<前編>

ゴングKAKUTOUGI 6月号


『寝技は面白い。どちらかが攻めると、必ず受けがどちらか一方になるんです』

かつてコメディアンの由利徹の付人を務め、その後インドで足掛け14年に渡り柔道を指導している、それが三浦守氏だ。もちろん、鹿児島実業、鎮西高校という名門校で鍛えられた寝技の実力は本物。現在日本とインドの生活の割合は半々だという三浦氏は、今まで登場してきた人物とはやや趣を変える。今回は特に、氏の柔道以外の波乱万丈の人生も味わっていただけたらと思う。

<取材・文/藁谷浩一>


 100キロを優に越す大男には不釣合いなほど小さい(?)50ccのバイクに乗り、三浦氏は待ち合わせの明大前駅に現れた。インドから居を構える世田谷区松原に戻ってきたのは僅か2日前のことだと言う。締め切り間際、本当に幸運なタイミングで捕まえることができたのだ。
 「私は柔道に感謝しているんですよ。まず感謝しているのが、日本人に生まれて来たこと。だからインドに来れた。もし北朝鮮とかに生まれていたら、今頃銃を持たされて立っていますよ。柔道は日本で生まれ、その柔道を私がやっていたということ。インドでかなり感謝しましたね。」
 無精髭を蓄えた顔で、笑みを携える。彼がその後の人生を決定付ける柔道を始めたのは、鹿児島南中学校から。県で1,2位の実力を争う中学であり、当時、九州の柔道のレベルは全国的にかなり高かった。三浦氏は「黒帯、インドを行く」(木犀社)という著書を現しているが、その帯には山下泰裕氏が推薦文を書いている。そう、二人は学校は別だが、同期であり、中学、高校と何度も肌を合わせているのだ。
 「中学時代、九州大会の準決勝でぶつかっているし、あとウチの方に練習試合に来たね。強かったですよ。普通デブだったら体重だけでガバッと倒すじゃない。山下はちゃんと跳ねていましたね。一緒に倒れず、立っていますから逆に僕が技を掛けても吸収されるような感じでした。」
と当時の印象を語る。

実技の寝技はマイッタなし、1日に3,4回落とされた

 高校は鹿児島実業に進学。戦後初の金鷲旗(団体戦)3連覇を果たすほどの名門校である。三浦氏が1年生のときが3連覇目。柔道のスタイルは寝技が中心だった。
 「実業で、中原忠雄先生に出会ったんです。中原先生は昔の徳三宝という高名な先生の最後の弟子なんです。寝技の引き込み返し、俵返しから全部反復練習させられました。寝技が強いと、立ち技に自信が持てる。立ち技は実力差がないと、なかなか一本取れないですよ。逆にそういう意味じゃ、一本取られない自身はあった。それを裏づけるのが寝技。いくら相手が大きくても、必ず1回はヒザ付きますからね。小さい者がデカイ者を抑え込むこともできるし、絞めなんて、手が入っちゃえば体の大小は関係ない。間接もそうなんだよね。…寝技というのは面白いんだよ。立ち技はお互い掛け合うけど、寝技はほとんど必ずどちらかが攻めると、どちらか受けが一方だけなんですよね」
 寝技の話になると、熱が篭る三浦氏。当時の練習はマイッタなし、絞めは落ちるまでだったという。
 「1日3、4回落ちることもザラ。だけど僕役者だから落ちたフリするんですよ。よくバレたけど(笑)」
 柔道漬けの日々。だが高校2年の夏休みに飲酒が発覚し、退学処分となってしまう。そこで鹿児島実業と並び全国にその名を轟かす熊本の鎮西高校に編入を申し出たが、学校間の単位数が合わないため却下された。
 失意の中、鎮西高校の校門を出ようとする瞬間、その大きく潰れた耳が目に入ったのか、初老の紳士が声を掛けた。あの木村政彦と同期で、鎮西柔道部の監督を務める船山辰幸氏だ。事情を話すと、船山氏は「よし、俺が入れてやる」と快諾。条件として合宿所となっている船山宅に三浦氏は住むことになり、新たに新年度の2年生に編入した。
 当時鎮西はインターハイ準優勝を飾り、鹿児島実業、鎮西、鹿本は九州のトップ・スリー。九州の柔道は全国レベルであった。三浦氏は今でいえば、世田谷学園から国士舘に移るようなものだったから度胸満点?
 「指導方法が2つは全然違うんですよ。実業は相手が崩れたところを狙って、ヒザを付いたら絶対に上に乗っかって徹底して寝技。鎮西は全然違う。柔道は立ち技から始まるんだ、と。相手を足で崩して倒れたところに寝技。だから立ち技ができなきゃ駄目、足が手のように動かなければ駄目だと、船山先生に足払いの練習をずっとやらされましたね。」
 実業の寝技に、鎮西の立ち技を身に染み込ませた三浦氏は、金鷲旗で2,3年生のときに3位、個人戦ではジュニア(20歳以下)で鹿児島県、熊本県大会優勝、九州大会では準優勝と活躍した。大学も放っておくはずがない船山氏の斡旋により、国士舘大学に特待で入学することがほぼ確定していたのだが…。
 ある日、鎮西レスリング部から声がかかる。佐賀国体を控え、重量級の選手が足りず、身長167cm、体重82kgの三浦氏が駆り出されたのだ。1、2回戦は1分かからず勝負を決め、3回戦で優勝選手と対戦。3分3ラウンドフルに戦った末、判定で敗れた。
 すると、翌日から鎮西高校に電話がかかってきた。スカウトの電話だ。日体大、専修…。レスリングという協議の面白さを知ってしまい、悩んだ末に船山先生にレスリングをやりたいと打ち明ける。当然船山先生は激怒。それは国士舘に斡旋した自分の顔を潰す事でもあったからだ。葛藤の中、結局柔道もレスリングも選ばず、大学には進まなかった。

上京して拓大柔道部に居候、誘われて由利徹に弟子入り

 76年、高校卒業と同時に上京。鹿児島実業、鎮西のOBも多い、文京区茗荷谷にある拓殖大学柔道部の寮に向かう。
 「居候したんです。寮に入ってタダ飯食って(笑)、一緒に稽古していたんです。ニセ学生だね(笑)。いい時代ですよ。今じゃ考えられない。」
 翌年の拓大受験を心に置きながら、当時大学でもトップクラスの選手を抱える拓大柔道部で鍛えていたある日のこと。たまたま銀座で道路工事のアルバイトをしていた三浦氏に、ある者が声を掛けた。
 「面白いところへつれて行ってやるから、ちょっと来いよ」と連れて行かれたのが宝塚劇場。由利徹の楽屋に通された。そう、あの"おしゃまんべ”である。もっといえば、”花街の母””カックン”というギャグで有名な由利徹師匠である。由利氏は免許証を持っているかどうかだけ確認すると、「じゃあ着替えだけ持ってウチに来い。大学なんか行かなくてもいい」
 なんとも強引な展開である。由利氏は「丸々として、どこかひょうきんな顔つきは喜劇に向いていると思い…」と『黒帯、インドを行く』の序文に当時の様子を記している。上京して半年、大学受験を諦め、由利徹氏のもとへ弟子入り。兄弟子にはボクシングの元日本チャンピオン、タコ八郎がいた。結局、約7年ほど芸の道を歩むことになる。
 付き人時代は『ムー』『寺内貫太郎一家』『時間ですよ』などの人気TV番組にレギュラーを持ち、舞台も忙しくこなす由利徹氏に密着する日々が続いた。だが次第に撮影や舞台稽古の合間、役者たちが交わす外国の話しに興味を持つようになる。
「アメリカやヨーロッパは、みんな似たり寄ったり。その中でみんなインドだけは言うことが違うんですよ。また行きたいとか、あんな国はもう嫌だとか。どんな国なんだと思って」
 仏教系の学校でもあった鎮西で仏教の授業を受けていたこともあり、興味は膨らむ一方であった。行くしかない---。付き人に給料は出ない。食事代として月5〜6万もらえるだけだ。三浦氏はその中から貯金して10万円を貯め、85年、片道切符でインドに旅立った。

続く


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