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頑張れ! 三浦 守 君

 

 三浦君と私との出会いは学生時代に遡ります。彼は上京して、コメディアンの由利徹氏に拾われるまでの数ヶ月間、我々の寮(拓大体育寮)に居候をしてアルバイトに精を出しておりました。 実に図々しい奴だと思いながらも、どこか憎めない男でした。

 ある秋の日曜日の朝、久し振りにその三浦君から電話がありました。

「おい、今からそちらへ行ってもいいか、相談があるんだ。」

また、ヒッチハイクか何かで来るのだろうと思ったら、今日は時間がないから新幹線だというではありませんか。いつも”言い出したら直ぐ”なのだから困ったものです。

 30分ほどしてまた三浦君からの電話があり、”銀行が休みだから、帰りの電車賃を貸して欲しい”とのこと、事前に断りの電話を寄越すとは随分成長したものだと感心しました。

 二日酔いの頭を抱え、何も考える気力が無かった私は、仕方が無くOKの返事をしました。近くに住んでいるわけではありません。少なくとも、彼の住む東京から私の自宅がある磐田(静岡県磐田市:近年、JリーグのJUBILO磐田で少しは知られるようになった)までは、二百数十キロも離れております。”今からちょっと行く”という距離ではないのです。これもインド的な感覚なのか、彼が始めてインドへ足を踏み入れる以前から身についていた特技でした。

 三浦君の相談とは、”日印友好会館建設基金募集のパンフレットを作りたい。どんな内容にするか意見を聞きたい”ということでした。

 いつの頃だったでしょうか、それほど前ではありません。この時も彼はこちらの都合はお構いなしに突然訪ねてきたのです。暫く故郷鹿児島にて、インドに日印友好会館を作るために募金運動をしていたのだと、募金箱を私に見せ、募金活動の顛末を面白おかしく聞かせてくれました。鹿児島だけで集められる金額はたかが知れています。東京を拠点に、全国規模の活動をするんだと、彼には似合わない殊勝な顔を見せ、張り切って磐田を後にして行ったのです。

 夕方到着した三浦君を迎え、早速打ち合わせに入りました。”レイアウトはこうしよう”、”募金の金額はどの程度がよいだろうか”、”あの人にも発起人をお願いしたいがどうだろうか”、”いや、無理しない方がいいよ”・・・。数時間の内にパンフレットの概要は固まりました。

 この頃の私は、保証をしていた友人の事業経営の失敗により、突然降って湧いた数千万の債務に追われ、泥沼のような生活を送っていました。 しかし、他ならぬ三浦丸の新たなる船出の時です。三浦君からの電話を受けた直後から、可能な限りの金をかき集めておきました。勿論、彼の帰りの新幹線代も含まれております。”鈍行で帰れよ”と内心思ったのですが・・・。

「よし、三浦、肉でも食って祝杯を上げよう。」

二人は夜の街へと繰り出しました。

 三浦君から完成したパンフレットが送られてきたのは、それから3ヶ月後のことでした。なかなか良く出来ている。打ち合わせた内容とそれほど変わっていない。更に色々な味付けが施されていて、見るものに訴えるものを感じました。発起人を募る段階での失敗談等、話にだけは聞いていましたが、これほど多くの著名人に直接協力を呼びかけてきた彼のバイタリティーは、正にこの活動が本物であることを裏付けております。”漫画家の浦沢直樹氏や小学館殿のご好意で「YAWARA!」のキャラクターを使うことが出来た”と、喜び勇んで電話をかけてきたのも、まだ耳に新しいことです。


三浦守君の夢実現のために微力を尽くしたいという気持ちから、
その時のパンフレットを元に、このホームページを作成いたしました。


1997年6月6日 / Iku Kato

日印友好協会
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