IKU Homepage 日印友好協会アチャー柔道-表紙


アチャー柔道・日本編/第10回

「船山辰幸という男子(おのこ)」


アチャー柔道・船山辰幸という男子(おのこ)

    ある朝の出来事

    最後の金鷲旗

    素人見参

    迷い道



ある朝の出来事

 ある日、いつものように花岡山で朝稽古をしていた時のこと、ミイラ男の菱田が慌てふためいて我々の所にやってきた。例によって足を痛めたと言って稽古を抜け、先に境内を掃除していたのだが、走ってくるその勢いは一〇〇メートル10秒台だ。

「あ、あ、あそこに、あそこに・・・」

菱田は自分が走ってきた方をしどろもどろに指さしている。

「何か、ヌシは慌てて!」

スヌーピー内田がたしなめる。

「あ、あ、あそこに人が・・・」

「人がどぎゃんしたとか?」

 スヌーピーを始め、今では塾生の誰もが菱田の言うことをほとんど真に受けないようになっていた。しかし、この時の菱田の慌て方が尋常ではないので、一応彼が走ってきた方へ行ってみた。すると、そこには大きな木の枝から一人の男がだらりとぶら下がっているではないか。

 首吊り自殺だ!

 境内の裏手を掃除していた菱田は高級そうな靴が落ちているのを発見。これはラッキーだと拾いに行くが、しゃがみ込んだ菱田の首筋にぽたりと冷たいものが落ちた。空は晴れているのにおかしいなぁと思い上を見上げたところ、木からぶら下がっている男と目があったのだ。首筋に落ちたのは雨ではなくその人間の体液だという事を理解するのに菱田がどれくらいの時間を要したかは定かではない。

 おたおたする我々の後ろで聞き慣れたボスの声が響いた。

「よう見とけ。人間弱かとこげな風になる」

 しかし、実際に自殺した人間を目の前にした高校生にとってはその言葉を咀嚼する余裕などあろう筈はなかった。

 やがて騒ぎを聞きつけ、ジョギングや犬の散歩をやっている人達が集まってきた。

「いやー、これは死んで五時間は経っとるな」

「こやつは商売で失敗したに違いなか」

 ジョギングの中年男の2人は腕組みをしながら勝手なことを言っている。

 散歩途中のお婆さんは「なんまいだー、なんまいだー」と死体に向かってひたすら念仏を唱える。

 ベンチで腹筋をしている船山先生の所へ「先生。どげなか状況でしたか?」と興奮気味の警察が尋ねに来た。

「86、87・・・どうもこうも、ご覧の通りだ」

「そ、それはそうなんでしょうが、もう少し詳しくお話を」

「93、94・・・今、腹筋をしとるから待っとかんね」

「はい。わ、わかりました。」

 しかし泰然自若としたボスが次の日、この現場に花と線香を供える優しさも持っていたことも決して塾生は見逃しては居なかった。

 


TOPある朝の出来事最後の金鷲旗素人見参迷い道アチャー柔道


最後の金鷲旗

 昭和51年、夏、鎮西高校・3年に進級した私は最後の金鷲旗大会を迎えた。鎮西という二文字の刺繍が入った柔道衣はレギュラーしか身に付ける事が出来ない。この伝統の柔道衣をまとうことが私達にとってどれだけ光栄なことだったか。

 鎮西・柔道部には「闘魂歌」という応援歌がある。大会の前日には部員全員が船山先生の音頭でこの歌を合唱し、レギュラーを送り出すのが習わしになっている。

 これだけでも我々の闘志をかき立てるのには十分なのだが、塾に帰ると更なる儀式が待っている。船山先生の奥様が襷掛け姿で額に汗しながら、すり鉢で何かを擦っている。その目は爬虫類のようにぎらぎらとし、これがあの普段つつましやかな奥様だとはとても信じられない。

「さあ、これをぐっと飲んで頑張りなっせ」

 これぞ船山塾秘伝・乾燥すりマムシ!奥様からこの特効薬を頂けるのもレギュラーの特権であった。

 さて、このマムシパワーもあって金鷲旗熊本県予選で鎮西は見事優勝、福岡で行われる全国本体会に臨んだ。

 しかし、その本体会準決勝では県予選で下した同じ熊本の九州学院と対戦、この試合、副将で出場した私が1勝し、次の相手と引き分けた時点で戦績は5分と5分、勝負は大将同士の決戦にもつれ込んだ。ここで我が方の大将・ローラー投げの巨漢、志岐は相手の島本という選手の動きに乗り大内刈りをかけられ、バキと鈍い音をたてて畳に落ちた。場内は一瞬水を打ったようにシーンと静まり返った。志岐は上半身を左右に揺り動かしながら「うー、うー、」と殺した声でのたうちまわる。心配した私達が試合場に入ろうとすると、

「まだ試合中ばい!」

 船山先生は右手で私達を制した。。主審は軽く船山先生に黙礼し、相手選手の勝ちを告げる。その後志岐を乗せられるような担架がないので残りの選手全員で畳みごと会場から運び出し、病院に連れていった。志岐は移動する畳の上で痛みをこらえながら「すいません、すいません」と謝っている。

「よかよか」

 菊地さんの口癖をこの時は船山先生が口にした。

 結果、鎮西高校は3位の成績でこの大会を終えた。私にとって最後の金鷲旗大会であった。

 ちなみにこの年の優勝が九州学院、準優勝が熊本第一工業、上位3校を熊本県勢で独占したわけだ。


TOPある朝の出来事最後の金鷲旗素人見参迷い道アチャー柔道


素人見参

 鎮西高校にもそろそろ秋の気配が感じられるようになった頃のこと。

「レスリングの熊本代表に出場して貰える選手はいませんかね?」

 船山先生の所に見知らぬおじさんが訪ねてきた。椿油で上をテカテカにしたこの男は県のレスリングコーチ、何でも今年はグレコローマンスタイルの重量級が足りないのだそうだ。

「ヌシは勘違いしとらんか。ここは柔道部ばい!」

 船山先生は素気なく断ったが、この椿油なかなかのお調子者だ。

「わかってますとも。だからこそお願いに上がったんじゃないですか。さすが先生が指導されただけあって粒が揃っていますね」

「ワシが指導したのは柔道ばい」

「また、先生、そんな意地悪を・・・ここは熊本のスポーツ振興のためにもお力を貸して下さいよ。」

 暫く2人は押し問答を繰り返していたが、最後は船山先生、椿油の熱意にほだされたと言うより、そのテカテカ頭から発する臭いに降参したようだった。

「わかった、ばってん1、2年生は秋のリーグ戦があるけんつまらんばい(駄目だ)。3年生ならよか」

「へい、有り難うございます」

 船山先生の許可をもらった椿コーチ氏は、早速道場の重量級の選手を見付けては「何年生だ?」と聞いてまわる。彼の質問に対して初めて私が「3年」と答えると「先生、いい選手がいました。彼を連れていっていいですか?」と船山先生の承諾をもらいに行った。

「三浦、どぎゃんするか?」

 船山先生から打診を受ける。

「ばってん、自分はレスリングのルールは知らんですよ」

「平気、平気。ばーんと君の得意技でぶん投げて、両方の肩を1秒押さえれば勝ちなんだよ」

 椿コーチは何のてらいもなくこう言った。

「何だ、だったら大丈夫です」

 今度はボスがじろっと私の顔をにらんだ。

「ヌシは出るだけばい」

 

 その後、この椿コーチからは何の連絡もなかったので、国体の話は立ち消えになったものと思っていると、出発の2日前にレスリングのタイツを持ってふらりと道場に現れた。そして寝技の稽古をしている私を掴まえては「よし守、そこで押さえて!そうだ・・・よーし、なかなかよかぞ!」と、今日で顔を合わすのは2回目なのにやたら馴れ馴れしい。

「守、この調子なら優勝も狙えるな」

 船山先生は呆れてものも言えない風だった。

 

 昭和51年秋、佐賀国体が盛大に幕を開けた。

 1回戦、どうせにわか仕込みのレスリング、負けてもともと、気も楽だ。掴みに来た相手の腕を取って一本背負いをかましたらあっさりと決まり、そのまま押さえ込み、わずか5秒でフォール勝ち。あれ、どうなってんだ、レスリングという競技は?何でずぶの素人の俺がこんなにあっさりと勝てるんだ?

 私を責めないで欲しい。柔道でもこれだけ気持ちよく技が決まったことはなかったのだ。おまけに2回戦も1分以内でフォール勝ちしたものだからなおさら私は有頂天になった。

「先生、三浦君はどこの高校ですか?」

「熊本にこんな選手いましたかね?」

 控え室で他県の監督やコーチから声をかけられた椿コーチはとんでもないことを言っている。

「いやあ、彼は私が育てた秘密兵器でしてね・・・へへへ」

 しかしそういつまでも私や椿コーチを浮かれさせてくれるほどレスリングも甘いものではなかった。3回戦になると今までの相手とは格が全然違い、こちらがいくら投げてもブリッジで逃げられ、逆に後ろに回り込んではタコのように私の体に絡み付いてくる。これを繰り返している内にやがて時間切れとなり私の判定負け。投げた回数では圧倒的に私の方が優っていたが、結局レスリングに敗れた形だ。

「まあ、こんなもんかなぁ」

 さっきとは打って変わった情けない顔の椿コーチだが、試合が終わった後、ある大学の監督さんが控え室に尋ねてくると再びC調男に逆戻り。

「いや、大学の監督さんともなれば見る目が高いですね。三浦はこの私が育てたんです、ハイ・・・」

 大学の監督はそんな椿コーチの言葉を適当に流しつつ「三浦君はレスリングをやったことがないだろう!」と、ずばり切り込んできた。全てお見通しだったわけだ。椿コーチはやがて咳払いをしながら決まり悪そうに部屋を出ていった。一人残された私にその監督さんは名刺を出しながら言った。

「三浦君、君が本気でレスリングを始めればオリンピックも夢じゃないよ」

 オリンピックという言葉を聞いた途端、私の頭はオーバーヒートしてしまい、その後監督さんがどんな話をしたのかほとんど覚えていない。

 

 


TOPある朝の出来事最後の金鷲旗素人見参迷い道アチャー柔道


迷 い 道

 「三浦をレスリングばやらすために鎮西へ入れた覚えはなかぞ!」

 船山先生にレスリングに誘われた話をすると、返す刀でこう切り返された。私としても別に柔道を辞める気はなかったが、オリンピックという妄想が自分の中で日増しに大きくなっていたのは事実だ。レスリングのことを何も知らないからこそ、レスリングだったらオリンピックに行けるかもしれないと安易に思いこんでいたのだ。

「ヌシは大学で柔道をやるごと話を進めとる」

 それだけ言うと船山先生は以後私の進路のことは一切口にしなかった。

(まずい、ボスが怒った!)

 この時点で私はレスリングは諦めようかなぁと思った。しかし、皮肉なことにこれ以降、船山塾にレスリングのタイツが送られてきたり、鎮西OBを介して学校に電話が掛かってくるなど、国体で話をして大学以外からも勧誘が来るようになった。断らなければならないと思いつつ、話の最後に必ず出てくるオリンピックという言葉を聞くと、私は完全にその気になっていた。柔道かレスリングか、選択の期限はもう間近に迫っている。

 

「三浦君は最近元気がなかばいね」

 稽古の帰り、偶然道であったよかよかの菊地さんから声をかけられたのは、そんな暗鬱な状態が続くある日のことだった。

「よかよか、パンでも喰って元気ばださんね?」

 誘われるままに近所のパン屋さんでパンと牛乳を買ってもらい、その道すがら、いろいろな話をした。

「三浦君もそろそろ進路ば決めんといかんね」

 どうやら菊地さんは私がレスリングに行こうかどうか迷っていることを知っているみたいだ。

「船山先生が三浦君の柔道に合う大学ば探してくれとるやろ」

「はい、一応」

「よかよか。三浦君も頑張って船山先生のごと強うならんばね」

「先生は若い頃そんなに強かったんですか?」

 私は話題を進路のことからそらしたくて菊地さんの話に合いの手を入れた。それから菊地さんは若い頃の船山先生のことを少しずつ語りだした。そこにはいつも寝起きを共にしている私たちでさえ想像が出来ない船山辰幸像が浮かび上がってくる。

 

 昭和9年、旧制鎮西中学校は一人の柔道家の登場で全国にその名を轟かした。その男の名は木村、後に「木村の前に木村なく、木村の後に木村なし」と言わしめた、あの木村政彦である。

「木村がいるから金鷲旗は鎮西が持っていくな」

「今年は木村の鎮西で全部決まりだよ」

 柔道関係者の間ではもっぱらこんな風評が流れていたが、この話に人知れず奮起していた男がいる。他ならぬ船山辰幸である。

「鎮西は木村だけではない」

 男は心の中で何度も呟いたに違いない。

 いざ金鷲旗が始まった。鎮西は破竹の勢いで勝ち進んでいくが、観客はそこに木村の雄姿を見ることはなかった。何故なら大将の木村の前に、副将として闘う船山が何人の相手と対戦しようとも、決して敗れることがなかったからだ。結局、木村は一度も闘うことなく座り大将のままで鎮西中学が優勝。木村がなくても鎮西は勝つ、と世間に知らしめた出来事であった。

 

 船山先生を語る菊地さんの表情は私がかつて見たことがないほど生き生きと輝き、まるで子供が自分の贔屓のスポーツ選手を自慢しているとでもいう風だ。

「先生は負けん気が強かったけんねぇ。木村さんと歩く時も絶対に自分が低かところは歩かんかったらしかよ」

 その負けん気があるからこそ、木村先生が強ければ強いほど船山先生も強くなっていったのだろう。

「ばってん先生は気が強かだけやなかけんね」

 菊地さんは坪井川に落ちかかる夕日を目を細めながら、しみじみと話を続けた。船山先生はこの時期になると、就職が決まっていない柔道部員がいると、自ら知り合いの会社を訪ねてまわり、頭を下げるというのだ。

 その船山先生が話を進めてくれた大学に行くかどうかで悩んでいる自分が嫌になってきた。

(前号へ)(次号へ)


TOPある朝の出来事最後の金鷲旗素人見参迷い道アチャー柔道

IKU Homepage日印友好協会