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アチャー柔道・日本編
第9回「おかしな仲間たち」


アチャー柔道・おかしな仲間たち

    出会いの門

    船山塾

    「よかよか」

    お文さん



出会いの門

翌、昭和50年3月、私は熊本市内にある鎮西高校の門をくぐった。

斎野に合ってから約半年、自分の身の振り方を色々考えた末、もう一度高校に行こうと決心した。就職するのも一つの道だろうが、やはり高校だけは卒業したかった。どうせ行くなら柔道の強いところに行きたい。

鎮西高校(旧鎮西中学)柔道部はその昔、木村政彦先生と船山辰幸先生が活躍し、幾度か日本一の栄冠を手に入れた。今はその船山辰幸先生が指導に当たり、名門校の伝統を守っている。

「よし、ここでもう一度柔道をやり直そう」

しかし、その楽観的な希望も現実を前にしてもろくも崩れ去ってしまう。単位数が足りなかったのである。

「もし鎮西で勉強したかったら、もう1回入学試験を受けなさい」

これは先程職員室に編入届を出しに行ったとき、担当の教諭から言われた言葉だ。冗談じゃない。本来なら今年から3年生になるべき筈の私である。編入してもう一度2年生をやり直す覚悟は決めていたが、今更受験勉強などまっぴら御免である。

「それはちょっとですね・・・・」

返事を濁していると、その教諭は呆れ顔で

「別に無理に入ってもらわなくてもいいんだよ」

と冷たく言い放った。酒を飲んで退学になった男が自分の立場を分かっているのか、と言いたげである。まぁ、それは確かにそうなのだが・・・・・、  

1時間前意気揚々とくぐった校門を、沈鬱な暗い気持ちで出ていく。鎮西高校に入れるものと疑いもせず鹿児島から出てきた私には、この他に行く宛などあろうはずがなかった。門の向こうからは仏教校であることを象徴する大きな観音様が優しく微笑みかけている。苦しいときの神頼みではないが、私は思わず手を合わせた。

「何とかならないものでしょうか?」

しかし観音様は何も答えてくれない。

と、その時「こら、そこで何ばしよるか」と後ろから大きな声がした。ハッと見るとごっつい体つきの初老の紳士が茶色の大きなバッグを持って立っている。

(船山先生ではないか!)

心の中で叫んだ。金鷲旗は勿論、著名な大会には必ず登場する柔道関係者にはお馴染みの顔だ。ブレザーが制服の鎮西高校の中にあって、見慣れない学生服姿の私を発見し、不審に思われたのだろう。

「いえ、実は、あの・・・・」

船山先生は更に私の顔をのぞき込むと、左の耳だこをめざとく発見し、第2声を発した。

「ヌシ(お前)、柔道をやっとるのか?」

「はい」

「何処の学校か?」

「鹿児島実業です」

「おーおー中原先生のとこか」

「はい・・・・・」

「で、そのヌシがここで何ばしよる?」

「ええ・・・・だから今は鹿実ではなく」

船山先生は何か事情有りと察して下さったのだろう。私を近くの岡田屋という珈琲店に連れていってくれた。

「いつものやつば二つ」

船山先生はカウンター越しに注文した。

「じゃ、話ば聞こうかい」

私がここに来るまでの顛末を一通り正直に話し終わった頃、珈琲ではなくビールの大ジョッキほどもあるグラスに青緑色の野菜ジュースが運ばれてきた。

「これは体にいいから飲みなさい。」

そう言って船山先生は自分のグラスに塩をパッパッとふりかけ一気に飲み干した。私もおそるおそる口を付けたが、よくこんな苦いものを一息で飲めるもんだと思った。

「ヌシは焼酎は飲めてもベジタブルは飲めんとか?」

船山先生はそう言うと豪快に笑った。返す言葉もない。

「編入の件は何とかするが、ヌシは本当に鎮西で柔道をやる気があるか?」

先とはうって変わった鋭い目つきで見据えられた。

「はい・・・・」

「鎮西にヌシを入れる以上ワシにも責任がある。今日からワシの家で寝泊まりをしてもらうぞ」

私は自分の身身を疑った。初対面の、しかも飲酒で退学になった見ず知らずの高校生を、自分の責任で学校に入れ、しかも自宅に寝泊まりをさせようと言うのだ。

「そいでよかな」

話は一瞬で決まった。何と度量が大きい人なんだろう。


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船 山 塾

船山先生の自宅は熊本駅に程近い二本木という街にある。この辺りは昔の遊郭街で、今でも夜になると、ときどき艶やかな着物に身を包んだ白塗りの女性たちから声を掛けられるが、半径1メートル以内に近付かないと、それが明治・大正生まれの婆様だと判別することはできない。

先生の家は100年近くは経つ旧家。家を囲んでいる石塀には明治時代に受けたという鉄砲の弾の痕が生々しく残っている。

さて、この家は20年前から遠来組の鎮西柔道部員に私塾として開放され、世間では船山塾と呼ばれている。私が入った年には12人の塾生が寝起きを共にしていた。

部屋に入ってまずガマガエルの怪獣みたいなのが畳に寝そべっているのに驚かされた。人間なんだろうかと思ったが、これが立派な船山塾生で名前を志岐という。この男身長が175cmに対して体重が175kg、立つとほぼ正方形だ。福岡県は大川市の出身で、その巨体を買われ鎮西柔道部に入ってきた1年生だ。得意技は自称ローラー投げ。何のことはない、巨体を利用して相手を押しつぶす至極単純なものだが、普通こういうのは技とは言わない。(彼は後に大相撲に入り、十両、玄海鵬として活躍することになる)

菱田という男は岐阜県出身の1年生だ。185cm、125kgはある巨漢だが、志岐の前ではむしろ小さく見える。岐阜NO.1と自分で吹聴しているが、異郷の熊本でホームシックにかかったらしく、毎日泣きが入っている。何かといっては病院に行き、毎日どこかに包帯を巻いてくる。”ミイラ男”といつしかあだ名が付いたのは極自然な成り行きだったといえよう。

また杉浦という男は細面のなかなかの美男子だが、几帳面に小遣い帳をつけ暇な時にニーチェとかハイデガーとかわけの分からない哲学書を読んでいる。私のIQではなかなか理解しがたい人物であった。

世の中うまくバランスが取れているもので、後輩にこんな小難しい人物がいれば、先輩は多少ほのぼのとしたキャラクターがいてもよい。2年生のスヌーピー内田は、塾生中一番小柄で銀縁眼鏡をかけている。あだ名の由来は単純で、枕やパジャマにスヌーピー柄のものを愛用しているからだ。この男、船山塾の庭で鶏を飼っていて、その鶏が毎日産む卵をあつあつのご飯にかけて喰うのを唯一の楽しみにしていた。(しかしこの鶏君、彼が実家に帰っている間に志岐と私の発案で鍋にされてしまう運命にあった)

他にもここで紹介しておきたい変わり種はたくさんいるのだが、プライバシーの問題もあるのでこのくらいにしておこう。

朝5時45分、船山塾生の1日が始まる。寝ぼけ眼を水道の水でバシャバシャと洗い、熊本駅裏手にある花岡山の頂上まで一走り。これは既に60歳を越えているボス(塾生の間では船山先生のことをこう呼んでいる)自ら先頭に立つ。雨の日だけは風邪を引くといけないという理由で中止になるが、ボスだけは1年365日、このランニングを欠かさない。

頂上まで走ると、そこにある山寺の境内を掃除し、その後に筋力トレーニングと打ち込みをやり、また走って山を下る。これがいわゆる”朝飯前”の稽古、それにしてはちょっと重すぎるその代わりといっては何だが、朝飯は船山先生の奥様(ツヤ子夫人)がたっぷりと用意して下さる。

「飯を食わんば強うなれんばい」

「喰うも稽古ばい」

これはボスの口癖である。しかし、奥様の負担は我々の朝稽古以上だったかもしれない。

放課後は当然鎮西の柔道部道場での稽古が待っている。鎮西柔道の特徴は動き続ける足にある。柔道はバランスが命、連続技で相手を崩し、一本を取るのが船山先生の指導方針である。だから稽古の時は常に足は動かし続けていなければならず、動きが止まるとボスがやってきて、細い竹のムチで止まった足をぴしぴしと叩く。

「足が手のように動かんといかんばい」

これだけは徹底していて、乱取りの順番を待っている間も各自足払いの稽古をやっていなければならない。稽古のきつさだけから言えば鹿児島実業の勝ち抜き式稽古の方がハードだったが、しかし鹿実の場合は要領を使えた。(つまり適当なところでわざと負ければ後は楽ができた)鎮西の場合はそれが出来ない。道場にいる限りはどんな時にでも常に動いていなければならないのだ。

が、何と言っても鎮西柔道の最大の特徴は、恐怖の「参った」無しルール!、つまり絞め技を決められると落ちる(失神する)までそれから逃れることはできないのである。一日3、4回落とされる人間もざらにいて、絞め技がかかると「きー」とか「ひー」という悲鳴が聞こえ、一種動物園みたいな雰囲気になる。

「落ちる怖さば知れば、絞め技は喰わんごとなる」

船山先生は泡を吹いて落ちた人間に活を入れながらいつもこう言っている。

これを目の当たりにした菱田は、毎日寝技の稽古が終わる頃にやっと首に包帯を巻いて病院から戻ってくる始末だ。

さて鹿児島実業は中原先生の方針で寝技を徹底的に稽古する。そのイメージがあるのか、私は大いに警戒され、組んで倒れ込もうものなら相手は絞められまいと必死に攻撃を仕掛けてきて、逆に私が何度も絞められそうになった。

亀のように丸くなった私のお尻にボスの竹のムチがしなう。

「ヌシは寝技の稽古ばしよらんかったな」


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「よかよか」

「よかよか」とはつまり”良い良い”、人を褒めるときや、また逆にミスしたときに「大丈夫」[OK,OK]みたいなニュアンスで使う九州弁である。

この「よかよか」をたまに道場に来ては連発するのが菊池さんという人だ。

菊池さんはどう見ても60歳を越えている。見ようによっては70歳以上だが正確なところは誰も知らない。髪は真っ白だがいつも短く刈り上げているのでごま塩を頭にふりかけたような感じだ。小柄で痩せてはいるが近付くと妙な迫力がある。夕方になるとどこからともなく道場の片隅に現れ、一人で「よかよか」と頷きながら稽古を見ている。時には牛乳やパンを差し入れてくれ、「いただきます」と我々がハイエナのようにそれに群がると、またもや「よかよか」と頷く。

私は転入してきたとき柔道部のOBか学校の関係者と思っていたがどうもそうではないらしい。ボスにも道場に入る時に軽く挨拶するくらいで何を話すわけでもなく、そう考えると単なる近所の柔道好きなじいさんだろうということになるのだが、それにしては何のためにこうも頻繁に道場に現れるのだろうか。

「よかよか、志岐君はまた大きくなったばいね」

「菱田君は包帯の数が減ってきたな。よかよか」

この「よかよか」を聞くと何故か我々はホッとした気分になる。

 


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お文さん

船山塾には奥様の他にもう一人の女性がいることをここで紹介しておかなければならない。その名はお文さん。寅年生まれ、当年とって数えの85歳。まだまだ目も耳も衰える気配はない。昔から女中頭として船山家に住み込み、何でも船山先生のおむつを替えていたとか。「よかよか」の菊池さんが寡黙の人なのに対して、このお文婆さんは細かいことによく気がつき、早い話が口うるさい。私が鹿児島で目にしていた年寄りたるものはなべて大人しかったので、この婆さんを見たときには軽いカルチャーショックをおぼえた。

お文さんはいつも火鉢の前に体の2倍もある大きな座布団を敷き、そこにちょこんと座り、キセルの先にマイルドセブンをちぎっては詰め込み美味そうに吸っている。今は一応、船山家の電話番ということになっているらしい。塾生が帰ってくると必ずこの玄関横の”お文部屋”なるものを通らなければならないのだが、格子状の四角い小窓を開け、いつもその様子を監視しているお文さんは、私などが靴を脱ぎ散らかして二階に上がろうものなら決まって5分後には部屋に姿を見せる。

「靴ば並べてきなっせ」

「後でやっときます」

私がいい加減に返事をしていると即座にお文さんの攻撃が始まる。

「あーた(あなた)は鹿児島で悪かことしてここに来たのでしょうが。ちぃーとも懲りとらんごたるね」

「いや、ぁ、あれとは関係がなかでしょ」

「うんにゃ。一事が万事言うでしょうが。性根がまだ直っとらんばいね」

靴くらいで勘弁して欲しかったが私がぐずぐずと動かないと「これは船山先生に報告せねばならん」とくるからたまったものではない。その船山先生に対してさえお文さんは「先生、そのネクタイは背広とあっとらんばい」と余計な口を挟む。

同級生に古庄という男がいる。ボスがかわいがっている猛犬マルチーズの散歩係だが、ある日出来心でお文さんのキセルに詰めるマイルドセブン1本くすねてしまった。普段煙草を吸う男ではなく、ほんの悪戯に過ぎなかったのだが、まさかお文さんがちゃんと煙草の数をチェックしているとは思わなかったのだろう。

お文さんは、二階に上がってくるとすぐさま我々を廊下に並べるとキセル片手に左から順番に検閲を始めた。

「ふん、三浦君は酒は飲むけど煙草は吸いよらんばいね」

一体どこからそんな情報を仕入れてくるのだろう。

「志岐君はコーラばっかり飲みよっても強うならんばい」

スヌーピーのパジャマ姿を見ると「あーたは早よーおなご(女性)ば知った方がよかごたるね」

内田は顔を真っ赤にしてどぎまぎしている。

古庄もどうせ判りっこないと最初は高をくくっていたみたいだが、自分の取り調べが近付くにつれ段々緊張した面持ちになっている。お文さん、その古庄の前に来るとくんくんと臭いを嗅いだ。

「あーただろ、ウチの煙草ば吸うたのは」

「お、俺知らんですよ」

お文さんは暫く何も言わずにジーと古庄の顔を観察している。やがて手に持ったキセルで古庄の肩をポーンと叩いた。

「うんにゃ、んーただろ。ウチが吸いよる煙草やけん、よう判るとよ」

「よかよか。そげん吸いたかなら、あと1本だけ吸いなっせ」

「え、ばってん」

「そん代わりもう卒業まで吸うたらいかんばい」

古庄はどうしたものかと迷っていたが、更にお文さんは彼の手を握り甘言を弄する。

「よかよか。船山先生には黙っとくよ。これはウチとあーたの内緒ごつ(秘密)ばい」

この言葉を真に受け、お文さんの差し出すマイルドセブンを吸ったのが彼の運の尽きだった。

「古庄君、お茶受けにいつものよもぎ餅ば買うてくれんね」

それから卒業までの間、彼は従順なるお文さんのしもべとなるしかなかった。

そして、この古庄が買ってくる餅やらせんべいをお文さんとお茶をすすりながら食べる男がいた。他ならぬ船山塾の一年生、杉浦である。小遣い帳をつけ、哲学書を読むこの美少年を、お文さんはこよなく愛し「あの子はよか子ばい」「みんなも杉浦君を見習わないかんばい」と何かにつけ彼を引き合いに出す。杉浦の方でも「お文さんの言うことは当たり前のことばかりですよ」と彼女を煙たがる様子もない。馬が合うとでも言うのだろうか。

とにかく私は古庄の一件以来、二度とお文さんには楯を突かないようにしている。

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