私は旧田原村、合併して磐田市西島四四四、鈴木勝吉の三男として此の世に生まれ、両親の加護の許で将来性を考へ、当時の中泉農学校を四十二回の卒業として社会に巣立ちました。村の中の先輩を慕って日本の食品会社が合弁で作った台湾の合同鳳梨株式会社に入社しました。

四月のある日、トランクと洋傘を持ち、西島のカドヤの前で袋井行のバスに乗り、終点で下り、東海道線名古屋行きの鈍行に乗車しました。名古屋に着いた頃は外は薄暗かったが、持ち物を確認して、通し切符なので其の儘タクシーで東船場に行き、台湾連絡船に乗りました。大衆船室は何の仕切もなく、上敷きが通しで敷いてあるだけで、枕等何もなく、自分の持ち物を枕に利用する程度だったと記憶して居ります。

歌の文句ではありませんが、銅鑼の音に送られて、名古屋港を出港しました。瀬戸内海は静かで滑るような感じで、食事も百姓生まれには美味しかったが、お替わりはありませんでした。門司港を出たら船は落ち葉の様に弄ばれ、船酔いで食事が咽を通らず、基隆港に着きました。

此の世に生を受け始めて踏み出した外地。四面楚歌の私が待合室で腰を降して居たら、 「お兄さん何方へ」と声を掛けて下さる方が居り、 「実は私、日本の静岡県磐田市から先輩を慕って台湾に、日本の食品会社が合併して作った台湾合同鳳梨株式会社高雄本社に入社したもので、高雄本社に参りたいのですが」と言いました。 「之は奇遇だ。私も日本製糖公社の者で、台中まで戻るところなんです。台中までご一緒しませう。」と。 地獄に佛とは此の事かと天に昇る気持ちでご一緒を依頼致しました。

其の方の話だと、 「遂最近、阿里山の学校で日曜日に体育祭を開催した時、阿里山の蛮人達が謀反を起し、日本人を皆殺しにすると蛮刀を振り翳(かざ)し乱入して来て、彼方此方からの悲鳴が聞こえ、この世の生き地獄でした。私も此の時は便所の糞甕に飛び込んで命を拾う事が出来ました」と言う事でした。 私としては「貴重な体験談ありがとうございました」と。 警察の通報で掛け付けた蛮人達は全員処刑されたとか。

今現在でも世界のどこかでテロが発生し何百人もの犠牲者が出来たとか。 日本の昔話では肉弾三勇士が有名でしたが、最近では二〇一六年の今、此の自爆テロとか抑圧の有る所では反発が有り、為政者達はDHPの根本精神で此の世を渡れば等々。

長時間の旅の疲れで夢現(ゆめうつつ)して居たら 「次は終点高雄です。お忘れ物のない様に」とのアナウンスに吾にかえり荷物を再確認して終着駅を下車し、合同鳳梨株式会社までタクシーを走らせました。

本社に着きましたら、 「遠い所ご苦労様、先ず此の方へ」と応接間に通され、一杯のお茶をご馳走になり、 「長い旅お疲れでしょう」と労う言葉を頂きました。次いで出た言葉は、 「貴方は農業高校でしたね。」と。 「はい、磐田市の県立中泉農学校卒業です。名前は鈴木武と申します。」と。 「近くに鳳山農場がありますので、会社の車で農場までお連れ致しますから、ご自身の荷物を確認して参りませう。」と。

途中湖畔の中に中国風の監視灯が目に浮かんで来ました。間も無く農場事所に着き、所長の王さんが、 「私が鳳山農場の農場長の王です。宜しく」と。 「初日関係でしょうが、私が作業現場の監督の陳万才です。」と。 其の笑顔や動作が目に浮かんで来ます。独身寮で旅装を解いていると、手振りの鐘が鳴るので先輩に尋ねたら、 「夕飯の合図だよ」と、言はれる儘に食堂に行ったら亜冶(あや)という其の女性は流暢な日本語で「夕飯ですよ」と。 言はれる儘に席に就いて運ぶ箸の早さ。田舎育ちの私には茶碗の移動が早かった。

「美味しかったよ」と亜冶さんにお礼を言って寮に戻り横になって休んでいたら外は暗くなり、チイチイと聞いたこともない音、落合さんに「彼の音は何の音」と聞けば、彼は、「守宮(やもり)と言はれる益虫で、壁に止まって居て、飛んで来た蚊を舌を長く出して掴んで餌にしているのだよ。」と教えてくれた。実質的にも人間が熱帯地の病気マラリアを媒介する蚊を餌にして生活している守宮こそ、愛おしい友人であり、益虫だと認識を新たにした次第であった。道理で窓にネットは張って有るが蚊帳は使っていない。キヤキヤの守宮の誘導で夜路に就いた。

手振りの鐘の音に目が覚めた。時計を見たら5時半だ。急いで脚絆を巻き、食堂に行き、亜冶の「お早うございます」に又目が覚めた。 陳万才君と一緒に畑の現場に行きました。内地では見られない光景に唖然としました。時に纏足婆さん。一人健気に働いている姿に、栄枯盛衰は世の常とは言へ、自分の前に働いておられる彼女は天涯美人で有ったであろう彼女の現実、そして私との出会い。私自身目を疑う程でした。 昔中国では足首を小さくして育てれば、亭主に都合が悪くても早く逃げられない様にとの噂ですが、真実は知りません。足が小さいと美人だとも言われていました。

作業現場に参りましたら『クリイ』達が『カオギナライラ』と。何のことを言っているのかと仲間に訊いたら、『肥えた小豚』とか。新人を小馬鹿にした表現とか。 そんな時労働者達が八歩蛇(ぱーぽっつあ)と日本語で『八歩蛇』日本語に直すと此の蛇に噛み付かれると人間は八歩歩く内に死ぬ程の猛毒を持つ蛇との事。私自身、国内では常に蝮を捕えて、先ず先に毒歯を木の枝で折り取り、毒液を絞り出し、彼らの目の前で蛇の皮を剥ぎ取り、川で洗って居る所も見せました。以後、彼らの口から『カオギナ』の言葉は一度も聞いたことはありませんでした。

老い先短い老人に有った青春の一頁です。 それは台湾高雄県鳳山農場で勤務した頃、流暢に日本語の話せる陳万才君と一緒に楽しい毎日を送っていた時。それは、隣村から集団で通ってくる作業員の中で、身長壱米五拾糎程で、気立ての優しい楊さんという細身の女性でした。彼女は何故か「此れはどうするの」「此の草はどうするの」と言葉をかけて来るのです。その目つきや笑顔が「私はあなたが好きです。あなたは・・・?」と訴えかけてくる様でした。

「貴方の老家(ラオチャー)故郷は」とか、「父母親は」とか、そこで私は「日本で美しい富士山の有る静岡県だよ」と。亦、「台湾の料理は何が好き、果物は何が」と、私は、「台湾の果物でマンゴウ、竜眼、鳳梨、パパイヤ、ドリアン等々あるが、ドリアンはキャラメルの様な美味しい味ですが、外側の臭いが悪く、ホテル等は持ち込み禁止で、市場で食べる外ありません。」などと、彼女とは色々な話をしました。 誰かの歌ではありませんが、目を瞑(つぶ)れば瞼(まぶた)に、茶を飲めば湯呑に浮ぶ、異国同志の片思い。どうすればいいのでしょうか。

台湾合同鳳梨株式会社は、昭和十年(一九三五年)に、乱立による加熱競争状態にあったパイナップル缶詰工場を整理統合して設立されました。 台湾のパイナップル缶詰事業は、明治三十五年(一九〇二年)現在の高雄県鳳山から始まり、大正末期から昭和に入った頃に産業的に拡大していきました。 終戦直前の頃には、パイナップル缶詰の世界三大供給源の一つとなり、特に軍隊の保存食として重宝されていました。 戦後、此の会社は、台湾鳳梨公司に引き継がれております。