目次

  1. 農家に育った少年時代
  2. 希望を胸に台湾へ
  3. 鳳山農場
  4. 陸軍入隊
  5. 凍土満州
  6. バシー海峡春景色
  7. 捕虜生活
  8. 米兵との友情
  9. 復員
  10. 帰郷、結婚、そして今
  11. 著者略歴


1、農家に育った少年時代

私が生まれたあの時代、両親が子供の将来を考えて呉れたのか、兄弟姉妹六人を当時の高等学校を卒業させて下さいました。

毎年春四月、田植が終ると養蚕を始め、生えたばかりの蚕の上に蚕網を張り、細く切った桑の葉をその上に振りまくのです。此の作業を三回程繰り返すと、蚕自体が三度脱皮し、繭(まゆ)を作り始めます。之は大変と室の中を繭棚に改造します。 蚕が口から細い糸を出し段々姿が見えなくなって行くのを見て居ると愛しく思い、「頑張って!」と心に思うのでした。之から数日の後、繭棚から繭をはずし、業者に賣り渡すのでした。

春先に植えた稲も大きく成長しましたが、同時に雑草も大きくなりましたので、田の草取りと一番草取りを毎年続けての作業と、心配事が多かったのか、人生之からと言う六十五歳に脳梗塞を患い、父上は帰らぬ人となりました。

私は此の時、農業高校三年生になったばかりでした。毎月の学級費も、これまでは父上からだったので何も気にしていませんでしたが、父亡き後は兄貴の財政になった為、登校間際にお願ひすると怒鳴られるのが常でした。而し之は私が悪いのです。農家では日頃余り現金を扱っておらず、必要に應じて銀行や郵便局で降して来ますから。

この当時、普通の農家では手と足を使って蓆(むしろ)を織って居りました。母が毎日織るのを見て、見様見真似で織っても見ようと思いましたが、縦糸の縄がなければ蓆(むしろ)は織れません。縄をなうにも藁(わら)選(すぐ)りを掛け、泥を取り、尚且つ太い藁では蛇口は通らず、切り取らなければならず、一枚の蓆を織るにも其の前の支度が必要です。蓆とて一枚では業者が買い取ってくれません。お銭の尊さが心に染みる思いでした。

此の時代は農家が農薬を使って居りませんので、小川や農業用水路には鯲(どじょう)や鰻(うなぎ)、鮒(ふな)等、沢山居りました。モジリと言って竹で作った器具を使い、その中に鯲の餌にと田螺(たにし)を潰し糠(ぬか)とまぜて親指位入れ、モジリ三十個を背負籠に入れて、夕方農業用水路の鯲の居りそうな川床に、流されない様に伏せて、翌朝まだ夜明前、背負籠を背負い、モジリを引き揚げに行きます。 其の時、モジリの中でコチコチと音がすれば鯲が入って居て思わず笑顔。農業高校在学中の時分でしたが良く行きました。『柳の下にいつも鯲は居ない』の諺ではありませんが、場所を変えなければと、往復一キロメートルは有り、自分乍ら良くやってきたなぁと思います。

来年三月卒業と言う時、市の職員だったか記憶がないが、警察官にならぬかとか、別の人が満州開拓民の仲間に入らぬかと、仲間になれば満州の広野二丁歩が無料で提供されるが、などと言われましたが、私は既に就職が決まって居りますからと断りました。運命のいたずらと言うのでしょうか、守護神の賜物と思って居ります。