目次

  1. 農家に育った少年時代
  2. 希望を胸に台湾へ
  3. 鳳山農場
  4. 陸軍入隊
  5. 凍土満州
  6. バシー海峡春景色
  7. 捕虜生活
  8. 米兵との友情
  9. 復員
  10. 帰郷、結婚、そして今
  11. 著者略歴


10、帰郷、結婚、そして今

途中浜松駅で下車して、向宿の兄貴の所に寄る。駅から東へ行き、ガードを潜り、少し南に歩き、左に向きを変え、直進すれば其処はもう兄貴の家ですから。 時計を見たら夜の十時過ぎ、玄関の鍵が罹っているのは当然。勝手知っている他人の家、裏口に回り、雨戸を叩くのでした。

中から 「どなたですか」と兄嫁の久子さんの声でした。 「武だよ。夜遅く済みません。」と言いましたが、兄嫁は 「何でこんな夜中に」 と。私は帰国船の都合で名古屋港に着いた後の事を色々申し上げたら、雨戸を開けて室の中に入れてくれました。やさしい兄嫁はすぐ熱いお茶を出して下さり、 「今夜は遅いから明日ゆっくり話しませう」 と床に就きました。

一夜明けて朝。暖かい朝御飯と美味しい味噌汁で、お代わり迄頂き、タクシーを呼び浜松駅まで送って頂きました。袋井駅で下車して、故郷への足が進むのでした。この間私として一度も切符を買った記憶はなく、マニラの乗船から故郷迄のフリーパス。国家としての配慮が当然だと思いましたが。

袋井駅から見付行きのバスに乗り、西島のカドヤ前で降り、わが家へと足を運んだ其処には、夢に浮んだ茅葺(かやぶき)の屋根に倉庫と牛舎と牛も。何だか牛に「モーン」とお帰りを言われた気がしました。

上り端で「只今」と言うと、母上も「お帰り」の一言。 手と手を握った母の目に、溢れる涙が浮かんで居たのを、見逃す事は出来ませんでした。愛國婦人會其の他大勢の人達に見送られてから何年。母上の健在が何よりでした。

座敷を通り、仏壇に線香を立て、「只今帰りました。」と報告し、其の足でお寺に行き、我が家の墓に一枝の花と線香を立て、「常に家族、家族をお守り下さいまして有難う御座いました。此の度は、私も無事戦場から帰還する事が出来ました。今後共宜敷くお願い致します。」

『居候、居て悪し置いて悪し』で私としても居るべき人間でない以上、長居は・・・と思っていた矢先、彼(あ)る果物屋の主人に勧められて、或る雑貨屋を紹介されました。前にも申し上げました通りの人間。宜しくと・・・。

結婚して初めて聞いた事でしたが、長男は学校内で柔道の練習中、頭を強く打ち倒れ方が悪く死亡して、次男は私と同年で静岡部隊で南方作戦で戦死したとか。今私が両親の気持ちを考えると、商売に一心不乱、我が人生茨道の第三段の始まりでしょうか?

私の嫁は三女でした。戦争で食料も十分に生産出来ず、輸入すらままならず、お米も配給だったので、馬鈴薯なども小さく切り、お米の中に入れ、駄ふやしにしました。 都会の人達は、絹、銘仙などで出来ていた着物などを持って来て、農家でお米と交換して貰うのでした。後世に言う稼ぎ屋と言って汽車は農家に行き来する人達で常に満員だったのです。

亦当時の警察は取り締まりと言う名目で稼ぎ屋の米の目方を調べて、一人の持分に制限が有ったのか、取り上げられた人も有った様でした。

私も二男一女に恵まれました。長女が生まれ一年過ぎた頃、病気に罹りました。其の時女房がおかしい信仰に走り、手を翳(かざ)すだけで病気が治るからと、然し好ましい状態にならないので近くの医者に診断を受けたところ、之はもう手遅れですと言われ、恵まれた女子も私の立場上強く言えず、泪を流すのでした。

次男も祖母の遺伝でしょうか。小児喘息に罹り、心の休む時もありませんでした。此の様に悩んでいた時、臨家に公運堂と名乗る鍼灸師が居られ、子供六人を立派に成長させた人が居られたことを知り、高等学校卒業後、大阪の鍼灸柔整専門学校を卒業させ、現在、磐田市富士見町三丁目十一番地一で戸塚鍼灸大学堂と云う名で営業して居ります。

細腕一本で我々九十歳の坂を越えた両親に、至福の毎日を送らせて呉れる息子への恩返しが出来ればと、心に念ずる次第です。 敗戦後七十年も過ぎた今でも、マニラでのPW生活で特に世話になった、当時陸軍伍長だった、アメリカのニューヨークに住んで居られるトム・オーレンチ(Mr.Tom Olench)戦友の写真が有りましたら、一枚で結構です。常に胸に抱き、彼の世とやら迄行き度いのですから・・・。

おわり

平成29年5月25日 戸塚 武 96歳