目次

  1. 農家に育った少年時代
  2. 希望を胸に台湾へ
  3. 鳳山農場
  4. 陸軍入隊
  5. 凍土満州
  6. バシー海峡春景色
  7. 捕虜生活
  8. 米兵との友情
  9. 復員
  10. 帰郷、結婚、そして今
  11. 著者略歴


9、復員

歳月人を待たずとか、知らぬ間に半年の月日が流れ、我等には待望の帰国の日が回ってきました。戦友の別れとは、兄弟の別れの様に深刻なんです。抱き合ったり、紙一枚、ボオルペン一本持って居ないのに、お互いの住所、氏名、年齢、電話番号等々を聞き合い、この世の別れと思わせる深刻な風情でしたが、共に死線を越えて来た人間同士の気持ちを知る者は、戦友以外にありません。 太陽が輪を描き乍ら沈む姿を見て、思わず今日一日ご苦労様でしたと手を合わせるのでした。

二、三ケ月ほど過ぎた日に、例のトレーラーが我等を迎えに来てくれました。此の度は小石を投げられる事もなく、無事にマニラ港の帰還の船まで運んで下さいました。私達六名には各々十九ドル二十セント渡されました。之は期間中の、日本で言う日當でしょうか。流石アメリカと心に刻むのでした。

船倉の中には茣蓙(ござ)が敷いて有り、薄茶色の毛布が何枚か有りました。私としては、亦苦しい船旅が始まるのだと思うと、国へ帰る嬉しさと船酔いの苦しさが入りまじります。

万感胸に迫り、身の措く場所も知らず。 昔軍隊の一兵卒の頃、戦陣訓の中で『生きて虜囚の辱を受けず、死して護国の神となれ』と教えられましたが、日本が敗戦になったが、PW生活の中で、恥を一度たりとも掻く事は有りませんでしたよ。開戦時の指導部が敵を見る目がなかった為に、靖国神社の英霊に済まない事をしたのではなかったかと、心に念ずる今の私の心中です。

オート三輪車とトレーラーの比では有りませんね。 昔、東京大学の講堂に学生が立て籠り、日米安保条約反対を叫んで大きなニュースになった時代が有りましたが、勝てば官軍、負ければ賊軍とか。言葉とは時代と共に変わるのですかね。

我らを乗せた船は、魔のバシイ海峡を航海するのだと。然しこの時、海の藻屑となった何百人の戦友たちの御霊を癒して上げるべき一輪の花もなく、只手を合わせて安らかにと念ずる外に術はありませんでした。

軈(やが)て私達の船は台湾を右前方に見乍ら北進するのでした。時が過ぎる程に故郷への思いが重なり、各地区の土産品コレクションに盛り上がるのでした。 一夜明けて今度は沖縄だと、甲板は急に賑わって来ました。何年か振りの家族との再会ですから、私自身、母親の健康が心配でした。

門司港で下船する人、高松港で下船する人等、様々でした。 最終港名古屋で下船する人達が一番多く、私はその中の一員でした。

PWの帰国者の皆さんは此方へと案内され、特別な室に入れられ、頭の上から首の後から白い粉を振り掛けられました。後程聞いた話ですが、あれはDDTと言う殺虫剤だとか。特に南方からの帰国者、我々PWには色々な害虫が体に付いて居るからとか。何故と言う術もなくなされるままに・・・。

名古屋駅から東海道線に乗った時、昇降口から乗る人より汽車の窓から飛び乗る人が多く、戦災で焼野原になった駅前を見れば、自然と頷(うなず)けるのでした。

乗車直後、立錐(りっすい)の余地のない車内で、何故か親切に座席を譲り渡してくれる方が有りましたので、旅の疲れも有り甘受したその時、「兵隊さん、永い間御苦労様でしたね。どうぞ此の席へ」と、満員電車で座る所がなかったが、私にどうぞと席を譲って呉れました。荒ぶ此の世、一面識もないのに何故と思った次の瞬間、「兵隊さん、アメリカドルを持っていませんか」と何故私の胸の内までと魔法に掛けられた思いでした。 「ハイ」と答えました。次に彼は、 「そのアメリカドルは故郷に持ち帰っても使用できません。紙屑同然だから」 と背中にPWのマークが付いて居りましたから、其の十九ドル二十セントと交換したのが、此のパイ缶六キンでした。此のパイ缶の味は特別でした。